行くたびに雨が降って、雨降りの九州街ブラなどおもしろくもないと思いますが、気になってしかたがないので、まとめておきます。
大学時代のサークル同期の幹事で、九州は湯布院で同期会を開催ということになり下見に行きました。
2011年5月28日:豪雨。湯布院-長者原-竹田
2011年5月29日:雨のち曇。日田。台風に追われるようにして退散
半年後、同期会の本番。下見で雨男というのが判明し、幹事のお役目から、さすがにやばいと思って、前日に九州入りして、1日をプライベートな観光にあてる。
2011年10月14日:豪雨。プライベートで、杵築、豊後高田
2011年10月15-16日:小雨~曇ですみました。同期会本番、湯布院-長者原-湯布院
2011年10月17日:曇でラッキー。プライベートで田原坂
一応、事前の配慮が功を奏して本番は小雨~曇になったので、最低限の責任は果たせたか。
さんふらわあ が気に入りました
下見、本番ともフェリー、さんふらわあ で行きました。どちらも六甲道で用事をすませて、夜、六甲アイランドから出発、朝に大分港着。大阪南港からは別府行きが使えますが、こちらは少し混んでいるようなので、別府が目的でないなら、神戸発がいいように思います。
予想通り、前日5月27日から雨になりました。
大昔に九州合宿や、足摺岬に行った時にフェリーは利用しましたが、その時とは隔世の感があります。当時はいかにも「連絡船」という感じのマス席みたいなだだっ広い部屋がメインでしたが、今は個室や家族、小グループ用の小部屋がメインのようです。今もツーリストタイプの大部屋はありますが、今回は個室をとりました。ちょっとしたビジネスホテル感覚です。ボクの乗った時は大分まで11000円だったと思いますが、2013年現在13000になっている。いろいろ割引やキャンペーン、それにイベントもあるようなので、確認してください。http://www.ferry-sunflower.co.jp/hunetoma_campaign/
船のスピードは結構速く、あっという間に通り過ぎて行きました。
これから風呂に入って、天気予報をみて、寝ます。少し運転音はしますが、揺れもなく、足を延ばして快適に寝られます。もちろん、シャワー設備や展望風呂もあります。音楽などのアトラクションイベントもあります。全く不自由ありません。起きたら大分、または別府。
九州は観光立国だった!
大分港についたらすぐにバスがきて、JR大分まで連れて行ってくれます。ちょうど街も動きだした頃で、ドトールも5分待てば開きました。ゆっくり電車待ち。雨なので外に出る気は起りません。
特急に乗ります。時間があるので特急でなくてもよいのですが、各停がない。特急は貸し切り状態でした。先頭は1人だけ。ま、あさって台風がくるという予報なので、だれも観光など考えないでしょう。
一人、野を越え・・・
山に入り、対向車の時間待ちをし・・・
やっと湯布院に着きました。
湯布院で相方の幹事の到着を待ちます。相方は長崎からクルマできます。多少小降りになったので、待ち時間を利用してバスセンター、観光案内所、レンタカー屋を回って情報収集。お薦めの昼食スポット、観光スポットを紹介してもらいます。ま、観光スポットはメンバーそれぞれねらいを絞ってきそうなので、そのための情報収集。一応、仕事はします。
終ってから喫茶店でのんびりします。
湯布院はさすがに観光地で至れり尽くせりです。由布院駅は改札の仕切りがなく、駅員さんが笑顔で迎えてくれ、一人一人から切符を回収します。さすがです。大分港からの流れもそうでしたが、不案内の土地で、忙しい思いや無駄に時間を過ごすこともなく、難儀することもありません。九州が一国だとしたら、まさに観光立国。
由布院駅前通り |
相方の到着で、まずは宿舎(相方の会社の保養所を借ります)の確認、手続き。昼食後、長者原へ行きます。10月の同期会は湯布院の温泉に泊り、九重連山の登山口、阿蘇くじゅう国立公園のビジターセンターのある長者原までドライブし、天気がよければ少し山に登ってくじゅうの自然に触れたり、タデ原湿原を散策するのをメインコースとしています。
■リネン車によせて
駅前の鳥居にリネン車 |
今回の宿舎は相方の会社の保養所です。昨今はどこの会社の保養所も撤退するところが多いので、湯布院はどうか聞いてみました。
「撤退したという話はあまり聞かない」
「今回の保養所の立地は、開発会社が土地を拓き、日常のメンテを一切引き受けてる。客の受入管理、食事の手配、掃除や寝具の管理、草刈りや庭木の手入れ、補修などいっさいがっさいやってくれ、利用者は受付で手続きするだけ。」
一方で、我が六甲山は会社の保養所はどんどん閉鎖、個人の別荘も一部を除いてほったらかしの廃屋状態のものを多く見かけます。上山者も震災以前の水準に回復していない。その差はなんだ? 湯布院と六甲山を比較するのもどうかと思いますが、比較してみました。
湯布院は福岡から特急やクルマで約2時間、気軽に来訪できます。大阪から六甲山までも同じ程度で、これはeven。湯布院は名だたる温泉地ですから、癒しの場所としての価値は大きい。湯布院に来ること自体がが「癒し」です。都会から2時間で気持が切り替わって本物の「癒し」ができる。温泉地のメンテナンス全部がビジネスとしてうまく回転して、利用者は安心して癒しができる。これが湯布院であると思います。
一方の六甲山は、見所はたくさんあるにしても、それが埋もれてしまっているのではないか。六甲山上にもいろんな観光施設はありますが、どうも都市の延長臭い気がする。三宮や北野界隈と同じようなものを作ろうとしているのではと思ってしまいます。都市の延長なので街にないものを見るだけで、そんなものかと、さっと帰って、メインは三宮で遊ぶ。街で遊ぶなら大阪でも構わない。
六甲山にあった会社の保養所などは、流行に乗って作って流行に乗ってやめただけで、当然の結果です。その利用形態は、夜は宴会でしこたま飲んで、二日酔いのまま帰宅するというのが普通でしたから(実体験)。それなら別に六甲山になくてもよい。会社の延長で「癒し」がないのです。
個人の別荘にしても、別荘を持つくらいの人は他の場所に行くでしょう。六甲山を別荘地として開発した古のグルームさんは山上の散歩にハサミを持っていき、伸びすぎた枝を剪定したり、ゴミを片付けない別荘には注意して回ったり。それが六甲山の別荘開発でした。そういうマインドが欠落してしまった。今は、国立公園の土地を仕切って囲っているだけで、一般の登山者・観光客に無縁です。ある別荘の管理人さんが言うのには、「最近の別荘は、昔からあった里道(慣習的にだれでも利用できた)を自分の土地だとフェンスで囲っとる。自分も管理人なので境界にはフェンスを作ってるが、そこまではせえへんで」まさしく都市の延長。活用の哲学がないのです。
展覧台からの神戸 |
冬の六甲山自然探索 |
六甲山の名誉のために言っておきますが、ボクは六甲山は好きです。会社の保養所も共同利用できるシステムができたり、六甲山牧場や高山植物園、あるいは六甲山ホテルのように、六甲山ならではのコンテンツを持つところもあります。山道や雑木林など、つぶさに見ていくと、まことに六甲山らしい自然や歴史・文化を持つところもあります。いろいろな市民団体がそれを発掘して手入れし、情報発信しているのも事実です。それぞれが六甲山を活性化しようとしている。
六甲山を生かすには、やはり六甲山らしい登山と自然探勝でしょう。同時に六甲山には独自の歴史、文化がある。これを生かさない手はないでしょう。また、この発掘自体が観光資源にもなる。六甲山には六甲山ならではのリソースがあるのに、街の延長の機能を持たせようとしているのが間違いのもとと思わざるを得ません。
前を行くリネン車を見てこんなことを考えてしまいました。
一回りして、視聴覚ルームでくじゅう連山の紹介ビデはもみました。晴れておれば・・・・なかなかのビジターセンターです。
長者原は九州らしく「ちょうじゃばる」です。大分県玖珠郡九重町にある飯田高原の中心。九重連山の登山口です。
Wikipediaを見ていると、「長者原は、別府温泉の開発で知られる油屋熊八が、別府、由布院、くじゅう高原、阿蘇、雲仙、長崎を結ぶ観光道路(現在の九州横断道路のルート。やまなみハイウェイはその一部)を提唱し、1925年にこの地にホテルを開設した時に、熊八の盟友で鳥瞰図絵師吉田初三郎が、地元に伝わる朝日長者伝説にちなんで長者ヶ原(ちょうじゃがばる)と命名したことに由来する。」
油屋熊八さんは、温泉都市別府の観光開発に尽力し、由布院の礎を築いた明治-大正-昭和の実業家。宇和島人で大阪の米相場で富を築いたが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。アメリカ放浪の上、別府で再起。亀の井旅館や亀の井自動車を創業しました。彼にはもてなしの哲学ともてなしのアイデアがあった。今の九州の観光立国には彼のスピリットが受け継がれているのでしょう。なるほどと納得しました。なかなかの人物です。
農村回帰宣言市・竹田
ビジターセンター見学だけで時間が余ったので、竹田まで足を延ばすことにしました。牧ノ戸峠を越えていきます。途中の写真は雨のため、ナシ。
■やはり難攻不落の岡城
ポスターなどでよく見かけるアングルの石垣。これは難攻不落!
どんどん、上に登っていきます。二の丸跡の滝廉太郎の碑。
城跡の一番上の本丸台地です。
本丸跡には岡城天満神社。この城は島津の攻撃にも耐え、難攻不落ということで受験生に人気だとか。
■竹田市街迷走
街の中心部がどうなっているか、行ってみましたが迷走でした。
最初の写真は広瀬神社への道みたいですが、どこをどう通ったか?
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天領の底力・日田
翌日、やはり雨です。雨の中、日田に向かいます。
2011年当時、日田のキャッチコピーは「天領の底力」でした。JRか日田観光協会かどこかのサイトで見ました。同期会の案内にも使わせていただきました。さて、天領の底力とは?
9時ころ、湯布院を出発します。小降りになった時に由布岳を見てみましたが、雲の中でした!
雨も小康状態になってきたので、咸宜園にも行ってみることにしました。
塾棟の一つ、秋風庵 |
咸宜園というのは、ここにくるまで、正確には、先程の広瀬資料館に行くまでは知りませんでした。そもそも、日田は、甲子園での日田林高の活躍から、九州の山深い林業の街ということくらいの知識でした。
咸宜園は江戸後期の日田の儒学者・教育者、廣瀬淡窓(1782~1856年)が開いた私塾です。彼は、豆田町の掛屋(要は、金貸し)博多屋の長男で、勉強熱心。あちこちの師について学問しました。病気をしたことから家業を継ぐのを諦め、学者・教育者の道を選びます。
咸く宜し(ことごとくよろし) |
淡窓は文化14年(1817年)「咸宜園(かん・ぎ・えん)」を開きました。咸宜というのは、ことごとくよろし という意味らしい。入塾にあたり、三奪の法といって、年齢、学歴、身分の3つを奪い、同一線上
に並ばせました。その身分を問わず、だれでも学ぶことができたことになります。熟生は全国から集まり、明治30年の閉塾までに延べ約4,800人であった
といいます。咸宜園は全寮制で、薪拾い、水汲み、めし炊き、風呂掃除を含む、身のまわりの諸作業を、すべて役割分担します。お膳立てはなく自分でやる。教
育でなく自学です。
多くの塾生たちは学者や志士、政治家などとして明治にかけて活躍した。蘭学者・高野長英や兵学者・大村益次郎もここで学んだ。江戸時代はあちこちの藩で、藩校だけでなく私塾から寺子屋まで、いろんな形態の学問の施設が生まれてきました。天領・日田にあっても全国有数の私塾があった。日田は教育の街であったのだ。
これは徳川・江戸期の底力であるともいえます。時は幕末、それらの学校で学んだ若者が、国を二分し多大な犠牲を払いながらも、やがて明治維新を起こすことになる。天領・日田の咸宜園で学んだ大村益次郎の存在を考えると、咸宜園も「天領の底力」であったと思わざるを得ません。
秋風庵の向かい側に、咸宜園教育研究センターがありますが、そこにはこんな展示がありました。
日田は筑後川舟運により九州北部や西部一帯と交通路が開け、豪商が成立しました。豪商のなかには掛屋をつとめ、預り金を運用して周辺諸国の大名や九州一円の商人に貸付けを行い莫大な利益をあげるようになりました。その金融資本を日田金(ひたがね)といい、九州一円を経済的に支配するようになります。また、日田は、小倉、福岡、佐賀、熊本、大分、中津を1~2日で結び、南の薩摩と対峙する戦略上の要衝の地でもありました。
日田の「天領の底力」というのは、幕末~明治に人材を輩出した咸宜園とともに、こういうことを言うのでしょう。
さて、雨も小降りになってきましたが、明日は台風が直撃という予報です。せっかく九州まできてもったいないですが、天領の底力を垣間見たことだし、退散としましょう。
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