5月(2011年5月)に大学時代のサークル同期の幹事で、九州は湯布院で同期会を開催ということになり下見に行きました。2日いましたが、集中豪雨と台風接近でした。雨にふられて退散。
半年後の本番ですが、幹事のお役目から、さすがにやばいと思って、前日に九州入りして、1日をプライベートな観光にあてました。2011年10月14日、予想通り雨というか、豪雨。今回も「さんふらわあ」できましたが、大分駅前のドトールでさすがに考えました。この雨で観光か?
とにかく時間をつぶさないといけないので、とりあえずどこか行ってみることに。宇佐神宮とか昭和レトロの豊後高田あたりを考えていましたので、とりあえず電車にのります。
宇佐まで行かずに途中の杵築でおりました。理由はあまりありません。杵築についてはまったく予備知識がありません。辛うじて、杵築という名前は知っていたが、それも出雲大社の杵築です。また、以前読んだ「八幡神と神仏習合」逵 日出典著、講談社現代新書に杵築というのが出ていたような気がするので、なにかあるだろうと。雨は続いています。
きつき城下町資料館の御所車 |
ちょうど杵築行きのバスがあったので終点まで乗りました。駅やバスターミナルの案内を見ていると、どうやら城下町のようです。案内マップに従ってとにかく高台へ。雨は続いています。
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杵築城が半島の先端部分・城山にあります。この地での最初の築城は、応永元年(1394)で、領主であった木付氏4代頼直(大友親重が木付氏を名乗った)により、台地のすぐ東方に浮かぶ小島に木付城を移転築城。地図をみていると、杵築湾の奥が、二つの川に挟まれた半島みたいになっていて、
14世紀ならその先端は間違いなく小島でしょう。
きつき城下町資料館付近の高台から |
南台・志保屋の坂上にあった案内図 |
きつき城下町資料館にあったジオラマ。南西から北東を望む |
その後、17代続いた木付氏が文禄2年(1593)に滅び、文禄4年(1595)前田玄以、慶長元年(1596)杉原長房、慶長4年(1599)細川忠興、寛永9年(1632)小笠原忠知、と領主、城主が変遷し、正保2年(1645)に松平英親(6代目藩主から能見氏と称した)が三万二千石で入って定着し、幕末まで支配を続けました。城郭は、慶長元年(1596年)の震災と、慶長2年(1597年)の暴風雨によって(火災と書いてあるサイトもあった)天守などが損壊したため、台山北麓に居館や政庁が移され、正保2年(1645年)以降は松平氏により山上の郭群が廃止されたという。
杵築城については、やたら情報がありますが、微妙なところで違っていたりするので、確からしいサイトを3つ。
http://www.uraken.net/museum/castle/shiro80.html
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/03/blog-post_212.html
http://www.city.kitsuki.lg.jp/soshiki/23/kitsuki-castle.html
城下町は松平氏が入国してから完成したといわれます。南北両台地を武家屋敷として整然と区画し、南北両台地の間を東に流れる谷川に沿った地を町家建築に当て、その町割が今に残って「サンドイッチ型」城下町といわれるようになりました。南北両台地は標高40mほどで、この高低差を、相対する坂を見ながら上り下りする坂道が街の迫力を生み出しています。
北台・酢屋の坂上から南台・志保屋の坂を望む |
杵築という名前については、少し調べると「徳川六代将軍家宣下賜の朱印文に木付の文字が杵築と書き間違えられたのをきっかけに、木付を杵築と書くようになった」という記述があり、単なる間違いか故意かは知りませんが、かなり拍子抜けしました!
http://oita.jp-o.net/kunisaki/kituki/siro/siro.htm
■酢屋の坂の上の辻
ここから東に入ってみます。
勘定場の坂を下から見た |
■藩校の門
杵築藩は藩校・学習館を持っていました。中に旧藩校の30分の1の模型を配した「藩校模型学習館」が建っています。この門は藩主御成りの門で、天明8(1788)年(天明5年というサイトもある。建物が天明5年建設かも?)に七代藩主松平親賢が設立したものという。藩校というのは主として藩士子弟を入学させますが、ここでは家塾や他藩に遊学することも自由とし、平民の子弟で入校を希望する者には許可したという。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n576.htm
http://www.kit-suki.com/tourism/index.php?action=story&sub_cat_id=2
(ここでも設立藩主が、親賢とか、主親とかいろいろある?)
すばらしいのは、この中の敷地に杵築小学校があるということです。伝統ある藩校の敷地で勉強している。校舎も新しいが藩校をイメージして作られたものではないかという気がします。
藩校の門 |
杵築小学校 |
■能見邸
せっかくなので、藩校の門前にある能見邸を見学します。
能見家は、松平家の出身地である三河国能見(現・岡崎市能見町;材木町のすぐ北、かすめて歩いたことがある)を姓に取り、その5代藩主親盈(ちかみつ)の9男幸乃丞・親貞が杵築の能見家の初代となるそうです。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n559.htm
http://www.kit-suki.com/tourism/index.php?action=story&sub_cat_id=2
【案内看板より】
能見邸
北台武家屋敷群に立地する能見家は、杵築藩主松平家の出身地である三河国能見(現愛知県)を姓とし、五代藩主親盁の九男幸之丞が初代となります。「居宅考」によれば、寛政の大火(1800年)以前は岡藤介(三百石)の屋敷で、火災後、楽寿亭の御用屋敷に加えられて菜園場でした。その後、能見氏が入ったものと思われます。
平成十九年三月に能見マサさんから寄贈を受け、平成二十年度から保存解体修理を実施しました。建築年代を特定する資料に欠けていますが、建築様式などから幕末期のものと推測され、武家屋敷の旧状をよくとどめています。平成二十二年四月一日より新たな観光施設として、一般公開しています。
能見家の初代という言い方がよく分かりませんが、杵築の能見家の(この家の)初代ということでしょうか?。歴代藩主は以下のようになっています。(
英親(ひでちか) (杵築藩松平家初代)
重栄(しげよし)
重休(しげやす)
親純(ちかずみ) (新庄家より)
親盈(ちかみつ)
親貞(ちかさだ)
親賢(ちかかた) (親貞の弟)
親明(ちかあきら)(親貞の二男)
親良(ちかよし)
親貴(ちかたか)
と続き、廃藩置県 に至る。
本来ならば、門の前に「台の茶屋」という案内看板が出されるのですが、ただいま9時20分で大雨でオープンが遅れたようで何もありませんでした。
それでも「いらっしゃい」とのことで、(多分)ボランティアの方が付いてくれ、簡単に説明してくれました。
・能見邸の成り立ち
・杵築藩の役割-九州諸藩は船(大坂以西の港に上陸する)での参勤交代が許されていたが、船で行く場合は、杵築に寄るのが義務だった。要は、杵築藩は譜代なので、外様大名を監視していた。
・この欄間は謂れがある(その謂れは忘れました)
・厠も見ていけば・・・
ということでした。忙しそうだったので、勝手に見ますからということで、勝手に見せていただきました。奥の部屋でノートPCが動いているのが今風です。
■杵築藩の役割についてまとめておきました
徳川幕府の大名配置の方針は、江戸周辺や、東海から大坂周辺の要所には譜代大名を配し、外様大名は遠隔地に配置、親、疎、譜代を相接して配置し監視させることでした。豊前、豊後では、中津、杵築、府内(大分の旧称)の3藩が譜代、日出、臼杵、佐伯、岡、森の5藩が外様大名だったので、杵築藩・能見松平氏
と 府内藩主
大給(おぎゅう)松平氏が交互に在国し(ということは、交互に参勤)、外様大名を監視する任務を帯びていました。また、外様 岡藩主 中川氏 と
臼杵藩主 稲葉氏 は交替で参勤させていました(御在所交替方式)
九州監視の総元締は小倉城の小笠原氏ですね。外様大名の毛利氏や黒田氏・島津氏を見張らせるためでした。参勤途中で杵築に寄る必要があるのかどうかは、WEBでは見つかりませんでした。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n308.htm
譜代、外様の区別:http://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/edo_q02_daimyouhaiti.htm
■大原邱
大原邸は能見邸の隣です。こちらの方は、大分県指定の有形文化財ということで、200円。長屋門を入ると、萱葺きの母屋玄関が見えてき
ます。杵築では、寛政に大火があったようで、それまでは、萱葺き屋根で建てられるのが普通だった由。わら葺き屋根と書いていますが、ここは萱だったでしょ
う。
納屋から玄関のソテツをみる |
玄関先からソテツと納屋、馬小屋 |
パンフレットによると(抜粋)
「居宅考」に、宝暦の頃は相川東蔵(120石)が住み、東蔵が知行返上後、中根斎(家老新知350石)、岡三郎左衛門を経て、桂花楼となったとあり、御用屋敷桂花楼の場所であったと伝えられる。「町役所日記」によると、天保3年(1832年)に大手広場にあった牡丹堂に桂花楼は移り、その後は御用屋敷として続いていたらしい。
明治元年(1868年)の絵図では、大原家の屋敷となっています。嘉永(1848年から1853年)の藩士帳にみえる用人大原文蔵(200石)の屋敷地です。
大原家が、いつごろからこの屋敷に住んだかは不明であるが、文政(1818年から1830年)以降と思われる。--中略--
式台玄関には、八畳の次の間から鉤の手に10畳(16.54平方メートル)の座敷に通じる。これら接客部分裏の居住部分が完全に分離される点も他の家と異なる。
中島をもつ池は大きく、杵築の武家屋敷では最も整った庭園を有することも、当家が普通の武家屋敷でなかったことを物語る。建築年代に関する資料に欠けるが、19世紀中頃以前のものか、あるいは桂花楼のものであろうか。
一部を除いては旧状をよく留めており、屋根も残り少ない草葺で、風格をもち、庭園も立派で、杵築における最も貴重な遺構の一つである。
http://www.arch.oita-u.ac.jp/a-kou/moku/mokuzoukentikuDB/kensaku/hokubu-area/kitsuki/ohara-tei/index.htm
http://www.city.kitsuki.lg.jp/soshiki/23/ooharatei.html
玄関の間 |
座敷 |
座敷は白壁 |
座敷からの庭 |
板の間 |
台所、おくどさん。萱保護のため毎日燃やして煙を立てている |
![]() |
間取り図(パンフレットより) |
庭から母屋をみる
じっくり見せていただきました。譜代大名の家老の家にしては質素。ボクの実家は農家でしたが、部屋数はすくないものの、納屋や作業場、牛小屋をいれると、全体はこんなものでした(庭はもっと狭いけど)。多分、豪農のほうがよほど大きな家で、豪華絢爛としていたのでしょう。しかし、質素とはいえ、必要にして十分。随所に美しさは感じられます。堅実、充実の美といおうか、江戸時代というのはこういうものだったのでしょう。
■酢屋の坂を下ります
大原邸の蔵 |
酢屋の坂。大原邸はやはり武家屋敷です |
酢屋の坂と綾部みそ店 |
戦国時代には、島津に攻められても落ちなかったという城です。黒田官兵衛が救援に来たから助かったという話もあります。水上交通の監視にはよさそうなロケーションですが、慶長以後は城山の城郭は再建されなかったようなので、あまり意味のない城郭だったか。それより江戸時代は殖産興業だったのでしょう。
川は八坂川。大河のように見えますが、大雨での増水と満潮だったようで、川幅が膨れ上がっています。干潮になれば州が出現するようです。
志保屋の坂を登ったところから、酢屋の坂を見ています。農村地帯で川を挟んで畑に登り降りするというのは時々見ますが、屋敷街でこのように坂が相対しているのは見たことがありません。確かに、ここにしかない風景です。それだけに、インパクトがあります。
■きつき城下町資料館
きつき城下町資料館に行ってみました。「杵築の城下町全体を歴史公園としてとらえ、その中核的機能を果たすための資料館」というコンセプトで、城下町杵築に関係の深い資料の展示や収集、調査・研究、教育普及活動をする、ということですが、それでは一般的過ぎる。
ボクは、この手の資料館は苦手で、見に行っても全然記憶に残りません。ふと思い出した時にも、再訪はまず不可能なので、展示のエッセンスと解説くらいはHPで常時載せておいてほしいところです。そうすると見に来なくなるという反論があるかも知れませんが、HPを見ても来る人は来る、来ない人は来ないと思いますが。
常設展示としては、1階のロビーの御所車、城下町復元ジオラマ、杵築歌舞伎が目を引きます。この資料館のいいところは案内の、多分ボランティアの方が常駐していて、詳しい説明をしてくれることです。ボクが行った時は、たまたまあるグループのツアーがスタートしたところで、一緒に入ってくださいと誘ってくれたことです。かなり詳細に説明してもらえます。また、学芸員の方も気さくに説明してくれます。入っていきなり「御所車の写真撮っていってね」と勧めてくれたほどです。写真は2点ほど撮ったものを載せておきました。
■裏丁
ここを左に曲ります。南台武家屋敷の裏丁に入ります。江戸の武家屋敷の面影を最も色濃く残すと書いてあるサイトがありましたが、南台も北台も武家屋敷の風情は同じように感じましたけど。
■きつき衆楽観 http://shuurakukan.com/
大衆演劇の専門館だと思っていたら、その名も衆楽館でなくて、衆楽観。大衆演劇公演をメインとするユニークな観光交流センター・きつき衆楽観が2009年元旦にオープンしたそうです。大正期の木造二階建ての酒蔵を改修した施設で、劇場のほか、レストランや特産品コーナー、ギャラリースペースを備えているとのこと。中は見ていませんが、酒蔵のイメージは残してあるんだろうか?
お芝居とお弁当がセットになったお得な観劇セット2500円は安いと思う。ボクは大衆演劇は趣味ではありませんが、その趣味の人はよいと思う。
http://www.kit-suki.com/gourmet/index.php?action=story&story_id=228
■商人の街
雨は途中で止みました。ちょうどお昼になったので、このあたりの食堂で昼食にしました。
ここは商工会館あたり、バスを待っています。低地の商人の街です。きれいに再開発されていますが、城下町のイメージにあうように設計されている。しかし、新しい建物だけに整いすぎていて、古さの美というのは感じられません。さすがに電柱はありません。谷川があるはずですが、資料館の学芸員さんによると、山手のほうに寄せて溝を作っているのだとか。小川を中心に両側に道を作って、その外に家屋を作る、熊川宿のような街区がほしいのですが、ま、それは高望みで、このデザインはやむを得ないところでしょう。
■杵築駅
杵築駅まで戻りました。この駅も城下町のイメージを踏襲しています。下手に洋風のデザインにしない、いい駅です。テントがあるのは、ボランティアの方がミニSL(電動)を動かすイベントをやっているのです。朝は大雨で難儀していました。やっと雨が上がったけれども客が来ないので手持ちぶさた?
雨に祟られましたが、半日を有意義に過ごせました。とうてい全部は廻れないが、杵築のエッセンスは理解できた気がします。季節を変えてもう一度訪れてもいいな。もちろん晴れの日に一泊して。
ボクはかなり好きになりましたが、坂道好き、土塀好き、古家好き、お城ハンターでないとちょっとシンドイかも知れませんね。なにしろ【温泉】別府と湯布院の吸引力が大きすぎる。パンフレットを見ても、キャッチコピーが・・・・・
豊後路の小京都
自然が奏でる。江戸が舞う。
きものが似合う歴史的街並み
別府、湯布院から30分。そこは江戸時代。
小京都とはイメージが違うし、江戸といっても古屋敷ファンでないと食いつきそうにない。坂道を強調すると余計マニアック。サンドイッチ型城下町は確かにユニークですが、単に地形がそうだったというのなら、「なるほど」で済んでしまう。来年は黒田官兵衛が大河ドラマのテーマらしいので、官兵衛がこのサンドイッチ城下をどうしようとしたかが明らかになれば注目を受けるかも知れません。どうも他力本願。
豊後路の杵築という風土に根ざした、サンドイッチ型、坂道のユニークな城下町が今も残っているというのがウリだと思うので、そこをアピールしてほしいですね。
どしゃぶりの豊後高田点描
また雨が降り出しました。宇佐まできましたが、どしゃぶりの様相です。宇佐神宮はすでにあきらめ。昭和レトロで売り出し中の豊後高田へいくかどうか。バス停まで行ってさらに思案しました。
豊後高田行きのバスが来たので、とりあえす行ってみます。
豊後高田のバスセンターから、それらしい商店街を歩いてみました。橋のところまで行って帰ってくるという、面白みのないルート。雨がザンザカ降っているのでいたしかたありません。
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昭和の町 展示館だったか?古い映画に特化しているのかと思ったら、「昭和時代を年表や展示品等で見る事ができる展示館です。当時の生活スタイルや出来事を学ぶ事ができます。」ということでした。映画ポスターしか目に入らなかった。
事前に少し調べた限りでは、博物館とか展示館主体の昭和レトロかなと思っていて、そうならテーマパークみたいなもので、人工くささがあるのでは?どうかな?と思っていました。しかし、ここの大きな特徴は、昭和を再現したのはそうですが、あくまで現役の生活がその上で成り立っているということです。これはスゴイ。そのためか押しつけがましさはありません、自然です。
豊後高田の昭和レトロのすばらしさは、昭和40年代までは国東半島で最も栄えた商店街があったが、大型店の郊外への出店や過疎化のために衰退し、「犬と猫しか通らない」と言われるほど寂れたシャッター通りとなっていたのを復活させたことです。単なるレトロ趣味ではない。総務省のサイトに、「豊後高田昭和の町」のいきさつを書いたpdfがあったので貼っておきます。なかなか市役所の若手もがんばってはると思いますよ。
http://www.soumu.go.jp/main_content/000063248.pdf
昭和の町公式サイト:http://www.showanomachi.com/index.php
雨に祟られぱなしで、十分見ることができませんでした。これではまた来なくてはいけない。しかし、ちょっと遠いんですね。
明日は曇りの予報なので、幹事として最低の責任は果たせそうで、今回はそれでよしとします。これから大分まで戻ってホテルにチェックインします。
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