2000年に仕事を変わり、2001年は母親の葬儀と、アウトドアどころではない日々が続いておりましたが、初盆を終え、やっと普通の生活に戻りました。
ここで半ば唐突に長篠です。戦記物のファンでもないし、信長ファンでもないのですが、当時、桶狭間の戦いの延長で長篠の戦いを調べていたと思います。9月21日東京で仕事、23日高浜で仕事で22日がぽっかりあいてしまいました。これ幸いと豊橋で前泊し、行ってみることにしました。長篠城から決戦のあった設楽原あたりを歩きます。
長篠・設楽原の戦いの詳細はいろんなサイトに詳しく載っていますのでそちらを参照ください。特に、この戦いで信長が採った3000人の鉄砲隊を3組に分け順繰りに発砲する「鉄砲の三段撃ち戦法」が斬新だったがゆえに武田勝頼の「騎馬軍団」を破り、これが「大量の鉄砲を集中使用する日本軍事史上に残る画期的な戦法=戦術革命をおこした」というのが定説になっていましたが、これは疑わしいというのが主流になっています。専門サイトをいろいろ読みましたが、下記が詳しい。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-01.htm
http://eikorekken.client.jp/collaborate/nagashino/content.htm
オリジナルは下記書物のようです。ボクは読んでませんが…
鈴木眞哉著『鉄砲と日本人-「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)
名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)
藤本正行著『信長の戦争「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年)
【長篠城攻城戦】
■飯田線長篠城駅
ここで降ります。まずはマップ。この付近の決戦場はかなり広範なので長篠城址、それから電車で三河東郷まで行って設楽原決戦場に行くこととします。
天正3年(1575年)7月9日(グレゴリオ暦)、武田軍は長篠城北方の医王寺に本陣を置き、南東側の鳶ヶ巣山砦他4つの支砦を置いて、徳川方の長篠城を包囲していました。医王寺はちと遠いね。
http://maechan.net/kanreki/ (和暦西暦変換tool)←これは便利
■長篠城址
奥平貞昌率いる徳川方約500の兵が長篠城に籠城、武田軍に善戦していましたが、落城必至の状況となり、鳥居強右衛門を岡崎城に援軍を要請させました。援
軍を送るとの確約を得た鳥居は長篠城に戻ろうとしますが、捕らえられつつも武田方を騙して「援軍来る」を伝えます。これに怒った武田方は鳥居を磔にしまし
た。城址の入り口には磔の鳥居強右衛門の大きな図が掲げられていてビックリ!
■鳶ヶ巣山の古戦場を望む
鳶ヶ巣山は2つのピークの手前にある開梱された山だと思います。
酒井忠次率いる織田・徳川連合軍約3000名は尾根伝いに鳶ヶ巣山の南側から武田軍の後方へ回り込み、奇襲。5月21日早朝には、全ての砦が陥落したそう
です。これにより、長篠城の救援と、有海駐留の武田支軍も掃討したことで設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことに成功した。よくもまああんな山の中を夜に進軍したものだと思います。3000名も!
■信玄台地
駅北から広がる低い丘陵は、今、信玄台地と呼ばれています。武田軍が前線陣地を築き、西の連吾川の谷間に出撃して激戦の上、壊滅的打撃を受けた所です。武田軍は1日もたずに敗走・帰国し、少しの間は命脈を保ちますが、7年後に滅亡するので、ここで壊滅したといってもいいでしょう。この時は信玄は既に亡く勝頼が当主でしたが、勝頼台地や武田台地でなく、信玄台地となった。信玄人気の現れでしょうか。
さて、信玄台地の記憶がありません。どこをどこをどう通ったのか?途中、首洗い池らしき池があったような気もするので尾根上をまっすぐいったのかも知れません。しかしこの写真がどこなのか?右手に茶畑、左手に信玄塚があるんやな、と思いつつ登った記憶があるのでマップのグリーンの道か?何しろ12年前の話ですから。
首洗い池:http://www.ja-aichihigashi.com/kyodo/38.html
【馬防柵】
■狭い決戦場
馬防柵が復元されているので行ってみます。武田陣地の信玄台地と徳川陣地の弾正山の間の平地は連吾川をはさんで。狭い所では150m、遠い所でも300mくらいで狭いです。
当時は梅雨があけるかあけないかくらいの時期で、連吾川をはさんだ両側の平地は田んぼがあれば水を満々と湛えた状況、田んぼがなくても湿地状だったでしょう。武田騎馬軍団も徳川軍と戦う前にぬかるみと戦わねばならない。

馬防柵が見えてきました。左は徳川陣地の弾正山ですが結構切り立っていて、馬防柵を突破したとしても容易には駆け上がれない。織田・徳川連合軍の戦術は馬防柵を作って、じっと待っておき、突撃がある度に内側から鉄砲で狙い撃つというものなので、先に動いて突撃した方が被害は大きいでしょう。山の上や中腹からも狙い撃ちしたのではないかな。
■鉄砲構え
空濠+馬防柵+土塁の3点セットのに隠れていて、相手の動きを待って動かないというのが織田・徳川連合軍の戦術の本質で、動かないのだから武田軍は突撃するしかない、そこを狙い撃ちというのが勝利の方程式であったようです。
当然ながら馬防柵は連吾川から一段高い所にあります。運良く柵直前に来たとしても、柵後ろの土塁や塹壕から狙い撃ちされたのでは武田騎馬軍団もたまったものではない。しかも、背後の弾正山は覆い被さるように迫っています。あたかも城壁を設けたような前線陣地です。しかし、武田騎馬軍団少人数であれ馬防柵を2段破って肉薄したというのはさすがというべきか。
■武田側から弾正山を望む
もう武田側に入っています。この辺りはかなり広いですが、激戦のあったという信玄台地ー弾正山間はかなり狭いです。この狭い所に、通説では織田・徳川連合軍3万5000(他に鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万2000(他に鳶ヶ巣山に残した部隊3000)が集結して戦ったとは・・・ただ、諸説はあって、織田1万2000-1万3000、徳川4000-5000とし、武田8000-1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000-7000という数字(高柳光寿の『長篠之戦』)が固い見積りのようです。それで、武田軍の損害を1万-1万2000、連合軍6000とするよりも、武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的とのことです。この数字をみると、武田軍は負けたけれども、勢力からいうと善戦したと言えるのではないでしょうか?
【本日のマップ】
より大きな地図で
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