2023年2月1日水曜日

竹内街道2


 竹内街道古市編  羽曳野

2005年9月18日

 

 失敗ウォークから早1か月,少しは涼しくなったので,残りの竹内街道を歩いてきました。
 い つもの通勤時間より早く,7時前に家を出ました。とりあえず前回の終点地・古市にいきます。今度は,靴も,ケイタイも万全です。

【古市にて】

  古市着8:30で,時間に 余裕もあることだし,朝ご飯を満足に食べなかったので,古市駅前の喫茶店でモーニングをと思っていたのですが,休みでした。おまけに,そのお店の前のタバ コ自動販売機でいつものPhilip Morrisを買ったのですが,出てきたのは1ミリのキングサイズでした。これはまずいんです。

  古市 駅前の踏切を渡って東にいくと,古い(大正風?)商工会館のある辻にでます。江戸時代,古市は竹内街道(大和街道)と東高野街道(京街道)が交差し,石川 水運の剣先船(浅瀬用の運送船)や石川の野通し船(渡し船)の船着場などがあり,水陸交通の要地として非常に大切な地でありました。特に河内木綿の集散地 であり,たくさんの荷物を運ぶには水運が重要で,そのためか,船の形をしただんじりがあるようです(竹内街道記念館で調査研究の展示があり,船形だんじり模型の展示もありました)。明治以降も南河内の物産の集散地として栄えたようで,商工会館はその名残かと思われます。
 道標から,南北に交差する道が東高野街道のようです。これを北へとっていくと,北河内のヨメさんの実家の前にくるはずです。南へとると紀見峠越で,高野山のはずです。さすがに遠いですが歩いてみたいような?(ウソです)
 それはともかく,北へ少し行くと,応神天皇陵と誉田八幡宮があるはずです。竹内街道を紹介したサイトで,古市にきたら足を延ばしてみるとよい,と書いて あったので,時間もあることだし,行ってみることにしました。東高野街道と国道170号(バイパス?)と交差するところには,かなり大きな常夜燈もあっ て,な かなか感じのよい街道です。祭礼の提灯が飾ってあって,写真はとれませんでした。

【誉田八幡宮】
 誉田別命(ほむたわけのみこと,こんだ・・・ともいいま す。応神天皇,大王というべきか)を祭神としています。本殿の北奥には応神天皇陵があります。仁徳天皇陵についで大きい前方後円墳で,地図をみると八幡宮 側は「後」の円い部 分になるようです。境界には石造りの太鼓橋(放生橋)がありましたが,もちろん通れません。そばに幼稚園がありました。


 応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたとあります。後冷泉天皇の頃(1045-65)になって、南へ1町離れた現在の場所へ造り替えたことが伝えられています。
 毎年9月15日の大祭には,神輿が放生橋を渡って応神陵の濠のほとりまで運ばれ、祝詞の奏上や神楽の奉納などの神事が行われるそうです。かつては陵の頂 上まで渡御していたといいます。放生橋は花崗岩製の反橋で,鎌倉時代に造られたと伝えられます。長さ4m,幅3mで,普通に歩いて渡るのも難しいほど
円くなっているのに,御輿をかついで渡るんですね。
 本殿は,両翼をしっかり張った,落ち着きのあるものです。右近
の橘,佐近の桜が植わっていました。今日は祭礼(だんじり巡行)なので,宮司さんが土地のひとと打合わせをしていました。鳥居の前は夜店の準備もされていました。


【応神天皇】
 15代天皇,仲哀天皇の第4子,母は神功皇后で,小さい頃即位したので,神功皇后がながく摂政をしたとされています(以上,神話)。応神天皇41年,西暦370年,応神天皇は崩御。
 応神天皇は,いろんな考証により,4世紀後半に実在した最初の天皇であると考えられています。かつ,応神天皇を境に王朝が交代したとする学説が有力で,旧王 朝を崇神王朝(三輪王朝),新王朝を応神王朝と呼んでいます。要するに,応神天皇の頃,4世紀末にヤマト政権は大きな転換期を迎えたようです。
 ひ とつは,河内平野への進出です。「河内湖」の干拓事業は,次の仁徳天皇のころだと思いますが,応神天皇のころから河内平野への新田開発などの進出があった ようです。そのため,ヤマトからのルートのおさえが必要です。ヤマトからまっすぐ西へいくのは竹内峠越ですが,そこは当時は葛城氏がおさえていたので, もっと北の大和川ルートとか木津川ルートだったと思われます。
 木津川ルートの確保については,仲哀記、神功紀に見える忍熊王(おしくまの みこ)の反乱伝承が,それを物語ると思われます。仲哀天皇没後、神功皇后が三韓征伐を終え、生後まもない誉田別皇子を伴い筑紫から大和へ帰還する際、皇子 の異母兄の忍熊王らが「吾等(われら)何ぞ兄を以て弟に従はむ」と挙兵しました。皇后は忍熊王を破り、誉田別皇子が皇太子となりました。4世紀後半には, 下に示すように日本と朝鮮半島の緊張が高まるにつれて,瀬戸内交通の重要性が加わり,一層開発が進んだと考えられます。
 また,朝鮮半島をめぐる政策の違いでの権力闘争もあったようです。こ のころ,朝鮮半島では,高句麗が南下してきて緊張状態になります。百済や伽耶(かや)諸国は圧迫され,これに対して,ヤマト政権は出兵することになります (369年:神功皇后摂政49年,応神天皇40年)。その危機を救い,百済が感謝して七支刀を贈るということにつながったと思うのですが,因果関係は荒っぽい 解釈かもしれません。391年にも朝鮮半島に出兵し,高句麗と戦っています。
 しかし,朝鮮出兵といっても,ヤマト政権内部ですんなり出兵 となったかどうか?従来の宗教的権威に依存する古い王権では,朝鮮半島の情勢に対応できず,出兵などできません。それに代わるべき勢力として,外交や軍 事,交易を担っていた河内の勢力が台頭し,ヤマト政権が河内へと進出することで,彼らを配下に治めたのでしょう。先の,忍熊王の反乱の実体は、朝鮮半島政 策を巡る4世紀末のヤマト政権の内部分裂で、その結果、応神天皇側が,大王家の正当な後継者である忍熊王を打倒して新政権を樹立したと考えられています。
 こ うした盟主の変動は吉備や上毛野(かみつけの)でも認められ、「畿内の政治的変動に連動して地方の勢力も再編され,南九州では生目に代わって西都原の勢力 が盟主の座についた」とみられています。また,「日向の諸県君(もろがたのきみ)一族が河内大王家の姻族となっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢 献したことを物語っている」ということです。
 結果として,このころから,巨大古墳=大王墓は、奈良県大和盆地に営まれていたのが、河内平野の古市古墳群(この応神天皇陵など)等に移動しました。そして5世紀には大仙陵古墳(仁徳天皇陵)のような超巨大古墳が出現します。これはヤマト政権が 大和盆地から河内平野も勢力圏に組み入れたことを示すものと理解されています。日向でも4世紀まで最大の古墳は生目(いきめ)古墳群に営まれていたのが、 5世紀には西都原古墳群に男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)が出現するようになります。5世紀の古墳に,鏡や玉類に代わって朝鮮半島系の鉄製馬具や甲冑(かっちゅう)が副葬されるようになるのも、被葬者の性格が司祭者から軍事指揮官へと転換したことを示しているのでしょう。
 なぜ日向の動向を入れたかというと,「いわゆる神武東征―初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内政権の時代に、4世紀末の内乱をモデルに構想された もの」とみる学説もあるからです。つまり王権を奪取した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身とすることによって、自らを正当化しようとした というのです。日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑(くさかのむら)の白肩之津(しらかたのつ)(東大阪市)に上陸します。この草香は5世 紀代、諸県君一族の髪長媛(かみながひめ)と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向系王族の拠点だったようです。「神武が日向を出 発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で即位した とする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即位したことに対応している」
なかなかおもしろいと思います。
 応神天皇の頃は,大陸,半島からいろいろな文物が導入されて来ました。大陸の金工、木工、革工,縫工また船匠鍛冶工など諸種の工芸が移入されて,文化工芸が飛躍的に向上しました。これらの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。また,百済からは,阿直岐を招き,我が国に始めて漢字を伝えると共に,王仁は論語(儒学)・千字文を伝えたとされています。王仁が難波津で船を下り、竹内街道を通って大和の朝廷へ歩いたのは応神天皇の治世である4世紀末のことでした。

【誉田だんじり】
 商工会館の辻から北に東高野街道をとり,近鉄の踏切をわたると,何か音が聞こえてきました。コンコンチキチンは祇園祭りですが,それとは明らかに違う力 強いリズミカルなお囃子です。カネ・太鼓で,カンカラカンカン・カンカンカンカン!というような感じで,迫力があり,聴いていろうとウキウキしてきます。 電柱にはってあったビラをみると,9/18-19は誉田八幡宮の祭りのようです。ラッキー。

 ふいに横丁からだんじりが出てきました。小さいながらも本格的です。囃子方が乗っていて,調子を盛り上げながら北へ行きます。わたくしもぞろぞろついていきました。揃いの赤いハッピをきて,若い衆が引っ張っていきました。さすがに河内ですね。

 誉田八幡宮の境内に東門から入ったところに倉庫があって,そこから別の組がだんじりを出したところでした。これは結構大きなものです。今度は黒のハッピきた若い衆でした。参詣道の中ほどに南大門があって,外から別のお囃子が聞こえてきます。また別の組のだんじりのようです。追いかけていって写真をとりました。

 誉田八幡宮からの帰り道,古市の商工会館前の辻でも違うだんじり組に遭遇しました。かなり大きいもので,屋根に登って音頭をとっています。練習でなく,本番のようです。ちょうど辻まわし?があって,かけ声をかけて一斉にターンしました。と,お囃子の調子が変り,テンポアップしました。文章で表現できないのですが・・・


 今回はタイミングよくだんじりまつりにあえて,さいさきよいウォークとなりました。

 


【臥龍橋】

 商工会館の辻を東にとると,すぐ蓑の辻です。江戸時代の両替商銀屋の建物があったそうですが,取り壊されて,跡地らしい場所には道路を新しくつけてモダ ンな住宅がたっていました。辻(というよりL字の角)は公園のようになっていて,案内板がありました。惜しいですが,個人の建築物だったよう
なので,古い建物を修理しながら管理していくのは金銭面で難しいのでしょう。

 街道はすぐに石川の川べりに出ます。臥龍橋を渡りますが河川敷はスポーツ公園のように整備されていて,子供達のソフトボール大会で。臥龍橋。龍がふせっているような形から(ほんとか)きていると思いますが,水神である龍から名前をとっているのでしょうか?

 石川東岸の川沿いの道が166号線と分岐するところにある道標が2つありました。

  日本最初大黒天通 是より五丁
  右法華寺 江 是より七十丁  (安政6年)

 車はみな,石川沿いの道をいくのですが,ここから東へ折れ曲 がる路地みたいなのが,国道166号線で竹内街道です。わざわざ矢印入りの国道の表示がありまし た。だれもこれが国道とは思わないでしょう。そういえば,今まできた古市駅からの竹内街道(これも路地みたいなもの)も国道166号でした。考えてみれ ば,広い車道ができたからといって,古代の官道を格下げもせず,国道として管理しているのも国家の姿勢としては正しいのだとも思います。  車はみな,石川沿いの道をいくのですが,ここから東へ折れ曲がる路地みたいなのが,国道166号線で竹内街道です。わざわざ矢印入りの国道の表示がありま し た。だれもこれが国道とは思わないでしょう。そういえば,今まできた古市駅からの竹内街道(これも路地みたいなもの)も国道166号でした。考えてみれ ば,,広い車道ができたからといって,古代の官道を格下げもせず,国道として管理しているのも国家の姿勢としては正しいのだとも思います。

 

より大きな地図で 竹内街道 を表示

 

竹内街道完結編  竹内峠越え 駒ヶ谷-竹内


 

【駒が谷から上の太子】
 近鉄駒が谷の駅前には逢坂橋があります。この橋から臥竜
橋の辺りまでの街道の周辺を地元では「古市の川向い」といって、河内木綿の問屋十数件あったようですが、明治初期の二度にわたる大水害で流されたりして問屋町は衰退しました。今はプラスチック工場などがたっています。そういえば,杜本神社を過ぎたあたりのL字型の辻はおそろしく道が狭くなっていて,そこに木造の倉庫のようなものがありました。木綿倉庫か?
 杜本神社は入口の石碑だけ撮って,パスしました。上りがキツそう。月読(つきよみ)橋のたもとではおばあさんが2人,話しこんでいました。橋を過ぎると駒が谷小学校です。
 ここからさきは急に広い道になり,見晴らしがよくなりました。ここは一面のぶどう畑で,北側の山のてっぺんまで続いています。東には二上山がよく見えました。道の向こう側には役の行者の聖水という小さな井戸があって,一休みしました。


 上の太子の駅近くから,また国道は細くなって村の中の街道という風情になります。上の太子の駅って太子町でなく羽曳野市なんですね。

 おなかが結構空いてきたので,喫茶店を探しながら歩いています。駅前には村の雑貨屋さんみたいなのがあって,パンとかジュースがありそうでしたが,パス。すぐに広い道になり,ここからが太子町です。

 まもなく高速道路の下をくぐります。春日の交差点で竹内街道は分かれて村の中をいきますが,こちらは喫茶店探しのため広い道を行きます。が,ない! 結局,六枚橋の三叉路まで行ってしまい,橋をわたったり戻ったり,うろうろしましたが,近くにあったスーパーマーケットで巻き寿司と柿の葉寿司,お茶,ナッツを買って休憩しました。だけど食べる場所がない。

【街道らしい登りだ】

 ここからは竹内街道は車道と分かれて静かな登りになります。ナッツをかじりながら登っていきました。

 道標からすぐのところに孝徳天皇陵があったのでお参りすることにしました。道端には白い彼岸花が咲いていました。お弁当を食べようと思ったのですが,あまりに失礼なのでお参りだけにしました。びっくりしたことに,この細い街道をタクシー乗りつけ,お参りにきた夫婦がいました。わたくしより若そうなのに,歩け!
 

 このあたりから,よく写真にでてくる街道風景がでてきます。しばし写真を,といってもあまり数はないですが・・・


【竹内街道歴史資料館】
 

 餅屋橋の道標をすぎて坂道をさらに登ると太子町立竹内街道歴史資料館への道しるべがあります。資料館の軒下にはベンチがあり,灰皿もあったので,ここを借りて昼食としました。気温は高いですが,ここちよい風が吹いてきます。9月も半ば過ぎというのに,ツクツクボウシがないていました。

 館内の展示は,竹内街道の歴史と特定テーマ企画展示です。縄文時代,石(サヌカイト)の道,弥生時代,最古の官道,太子信仰の道,お伊勢参りの道,と詳しい展示がありました。が,この手の展示は苦手で,その時は分かったつもりになるのですが,すぐに忘れてしまいます。もう1つの展示は,科長神社につたわる船形だんじりの調査報告の展示でした。ほう,これはめずらしい。よほど水運がさかんな土地だったのでしょう。太子町のだんじり祭りのビデオ放映もあって,お囃子が流れており,いかにも河内風のいさましいかけ声が調子のよいリズムにのって流れていました。しばし見とれておりました。

 竹内街道にもどって少し登ると国道にでて,細い街道は終りになります。ここで小休止して,道の駅があったのでお茶を補給しました。道端には彼岸花が咲いていました。

【竹内峠越】
 ここからは車道にでて登りです。歩道がないので危険です。二上山が間近に見えてきました。遊歩道でも作ってくれたら,と思いましたが,歩いて峠越えをする物好きなどはもういないのでしょう。


 途中釣り堀があって,その手前にはさびれた遊園地がありました。パラダイス!にはならないでしょうな。

 ドライブインを過ぎると,広場のようなところに出て,大きなお地蔵さんがありました。ここから間道である岩屋峠 に登る道が分かれています。さらに鹿谷寺跡に登っていく道もあります。子供連れや若いハイカーたちが登っていきました。ここを登ると,岩屋峠から二上山・ 雌岳および雄岳へいくことができます。雄岳ピークを下ったところには悲劇の大津皇子のお墓もあるようで,一度行ってみたいと思っています。

 ボクは車道を行きます。途中,バイクにのったおばあさんがイタドリの花を取っていました。なんということもない花なのですが,野趣があるということなのでしょう。もうすぐ竹内峠です。

 峠には茶店があって,ドライブの人でけっこうにぎわっていました。その前には祠があって,よくみると役行者をまつってありました。役行者御霊水がありましたが,少し土が湿っているだけで水が湧いているわけではないようでした。

 旧道の峠はどうということもないさびれた峠でした。国境の石碑と「鴬の関」の石碑がたっていましたが,雑草にうもれて寂しげなところでした。みんな,車でびゅん,と通り過ぎていくのでしょう。ごみの散乱した峠の休憩所で,しばしタバコを吸いました。

 この休憩所から石段を降りると,下りの街道です。街道らしい風情はまったくなく,林道ですね。しかし,道端には小さな沢が流れていて,この道は清らかな感じはします。南には高速(南阪奈道)通っています。国道166号が北側の山の上のほうを通っているので車の音は聞こえてきません。静かな下り道です。

【竹内の村にて】
 林道の周囲は開けてきて,棚田がでてきました。こんな谷深いところにも田んぼを作っているのです。古代,稲作をはじめたときは,このような,水がすぐに取れるところに小さな田んぼを,積み重ねるようにして作ってきたのだと思います。その後,大規模な潅漑・水利工事ができるようになって,大平野におりてきて,一気に生産力があがり,それを支配する豪族が,周囲の氏族を従えて,地域小国家を作ってきたのだと思います。

   まもなく,竹内の池の端にでました。けっこう大きな池です。司馬さんの乗った車が故障したのは,ちょうどこの上の国道だったようです。谷の向こうにはお寺があって,なんとペット用のお寺でした。

 菅原神社(左手崖の上にある)のあたりで、街道はまた国道から分岐 して,風情のある竹内の村に入っていきます。ここから500mくらいの間は落ち着いた街道風景が楽しめます。ちょうど太子町の街道沿いの感じですが,家々 はほとんど格子戸をそなえていて,古いけれども清楚で由緒ありそうな家ばかりです。よほど裕福な土地柄のように思えました。たまたまあった,酒店の名前も 「柿下酒店」ということで,さすがに由緒正しい名字が使われています。


 ヤ マトから見ると,この竹内峠を越えた向こうは異界なのです。二上山には大津皇子のお墓もあるし,二上山の向うの太子町には,ヤマトの高貴なお方のお墓が山 ほどあります。柿下人麻呂の柿下の意味は垣の下ということらしく,垣とは異界と人間界の「境界」をあらわします。柿本氏は,宮廷の外周ないしは宮廷の領地 の境界にあって,そこを守護し,葬送儀礼を専門的に行った職能部民でした。なるほど,末裔とはいいませんが,やはりこの地には柿本さんが住んでいるのですね。

 快適に街道を下っていくと,道標があって,古街道との辻がありました。
右 大峰山・・・,左 京・・・とあり,竹内街道は吉野を経て,大峰山へ修行にいく道であもあった思われます。


 この竹内街道ウォークを思いついたのが,司馬さんの「街道をゆく・竹内街道 葛城の道」であったので,最後は司馬さんの話でしめたいと思います。
 司 馬さんは子供のころ,よくこの地にきていました。母上の故郷が竹内だし,母上の病気の関係で竹内に近い今市の村に預けられていたらしいのです。そういうこ ともあって,福田定一少年はここで,サヌカイトの鏃ひろいに熱中するのです。一時などは,熱中のあまり,学校の成績もさがってきて,大変だったらしいで す。石器オタクといえばそうで,そのとき「いったいどういう連中がこの葛城に住んで,この石器を使っていたのか?」という疑問をもったそうで,その疑問が 歴史に向かわせ,「街道をゆく」を書かせたといってもいいでしょう。また,昭和18年,兵隊にとられて,出征する日が近づいてきて,どうせ死ぬだろうと 思って,司馬さんは竹内峠にいくのです。その峠道で,自転車にのった葛城乙女と一瞬の出会をする。その道がこの登り道なのでした。

  司馬さんは,「街道をゆく」の中で,こういっています。「葛城を仰ぐ場所は長尾村の北端であることが望ましい。それも田のあぜから望まれよ。」
少し場所は違うが,竹内の交差点あたりをうろうろしたあげ,竹内の田のあぜから,司馬さんに敬意を表しながら,葛城山の写真を数枚撮りました。


竹内街道當麻寺編       当麻寺


  竹内で喫茶店を探し,大休止したあと,竹内街道の終点 である長尾神社までいくのはやめにして,當麻寺へいくことにしました。というのも,折口信夫「死者の書」を読んで,3回目にしてようやく味わい深い小説で あることが分かりかけてきて,物語の地である當麻寺にぜひ行ってみたい気持ちになったからです。

【死者の書】
 死者の書は,最初,石棺のなかの死者の独白から始まるので,いったい何のことかと思っていたら,二上山に葬られた大津皇子のことだったんですね。すごい書き出しだと思います。物語では,奈良時代,藤原南家の郎女が,秋の彼岸の中日の夜になかば神隠しにあったように,ふらふらとこのお寺にくるのです。
 物語の藤原南家の郎女は,當麻寺につたわる「當麻曼荼羅縁起」の説話にでてくる中将姫と重なるのですが,浄土信仰へ誘う役所ではありません。彼女は,乙 女を 過ぎ,大人の女性に変わっていこうとする年代に設定されています。もと語部の老女などから,昔語りやいろいろな話をきいて,「躾」を受けるのですが,なぜ か飽き足らない。彼女が住んでいる女部屋からは,家のまわりの畑くらいしか見えない。そういう生活を続けていて,よい時期になれば,どこか高貴なお方のと ころへでも輿入れして,なにも疑わず,さらに家に「囲われた」生活を続けていくのが,この時代では,普通だったでしょう。

  一方では,この 時代は,西方の大陸から,竹内峠をこえて新しい文物がやってくる。この時代の最先端の考え方や知識というのは仏教でしょう。それも,より新しいものが細切 れのようにして伝わってくる。彼女は仏教学生ではないので,当然にもまとまった仏教体系はしらないのですが,それでも断片は伝わって,それが彼女の心をと らえたと思うのです。時代の新しい雰囲気というよいうなものが彼女をとらえている。この雰囲気のなかで彼女はものを考えるようになった。

 彼女は,父からの贈り物として,称讃浄土教を手に入れ,一心に写経するようになる。千部写経にいそしんでいるある春分の日の夕方,彼女は二上山の峰々の 間に 落ちていく夕日のなかに,瞬間,荘厳な人の姿をみたのです。彼女の心はその日以来,澄んだものになる。一方なにかしらの寂しさも感じるようになる。さら に,その年の秋の彼岸の中日にも同じ体験をする。

 次の年の春の彼岸にはようやく千部写経を終えるのですが,その日は雨で夕日は見えなかった。夜からは嵐になり,その夜,彼女は家を出て,一人でこの當麻寺に来たのです。そこで,風とともに二上山から降りてくる大津皇子の霊と交感する。
 この物語は,われわれ日本人が昔からもっているお天道様への信仰(太陽信仰と書いてしまうとちょっと?)と,それを基にして,外来の仏教という刺激で醸成された仏という形をした「神」へのあこがれを書いていると思うのですが,わたくしは,それとともに,ものを考えるようになった女性(でなくてもよいのですが)が,われわれを生かしている,より大きなものの存在を想いはじめた,その心の動きの方に気を取られて読んでいました。なかなか愛らしい女性であると。宮崎駿さんの一連のジブリものの映画の主人公を思い出してしまいましたが,宮崎さん,この映画を作らないかな?ピッタシくるものがあると思うのですが。

 
【當麻寺】

 ・・・てなことを考えつつ,二上山を眺めて,写真スポットを探し,暑い暑いと思いながら歩いていきました。門前の喫茶店でまたタバコ休憩です。3時過ぎですが,さすがにここはお参りする人が多いです。

 お寺などでは,普通,お賽銭箱の前ですませてしまうのですが,せっかくの機会なので,本堂で500円を払って,中を見せていただくことにしました。ご本尊は「當麻曼荼羅」です。中将姫が蓮糸を紡ぎ,染めて織り上げたと伝えらるもので,原本は非公開。ここ須弥壇の上には,転写された文亀曼荼羅が祀られています。金網の向こう側にあって,詳細はよく分かりませんでしたが,思わず正座をして解説テープに聞き入ってしまいました

 「當麻曼荼羅」の裏側には,裏板曼荼羅がありますが,この日は開扉ではありませんでした。これは,古曼荼羅を張り付けてあった板ですが,完全に剥がれないで残ったものらしいです。
 その他、本殿曼荼羅堂には,當麻曼荼羅が織られた部屋「織殿の間」には織姫観音とよばれる十一面 観音(弘仁時代・重文)が祀られ,弘法大師が修法された「参籠の間」では弘法大師三尊の張壁が拝観でき,開山の祖・役の行者も弟子の前鬼,
後鬼とともに祀 られます。曼荼羅の横にある中将姫の座像もそうですが,ここでは,至近距離で拝めるのがいいです。この日はたまたは参拝は一人であったので,十一面観音, 弘法大師,役行者の像の前では正座しじっくり拝んできました。季節や時間を少し外すと,独り占めという感じで対峙できるのがとてもいいです。


  ふだんはあまり宗教心などないのですが,1:1で対峙する と少しは「信仰」というものも考えてしまいます。弘法大師「密厳浄土」ということを説かれました。ひとりひとりが仏を念じ,自らが菩薩である自覚をするこ とによって,この世がそのまま浄土になる,「現世浄土」の教えです。これも文章だけよんで理解しようとするとよく分かりませんが,當麻寺のサイトにあるよ うに,當麻曼荼羅を想い,浄土に集う仏さまを念じ,自分自身もこのような仏さま菩薩さまのように生きようと心がければ,お大師さまの教えのように,この世がそのまま浄土に感じることができるかもしれません,ということなのでしょう。
 要は,「浄土は遠くにあるものではなく,ほとけさまは心の中に,お浄土は実
は目の前にあるんだと,心に念じ,明るい毎日を送っていきましょう。」ということで,「ああ,また失敗だった」ということもしょっちゅうなのですが。


 金堂には四天王を従えた弥勒菩薩像があります。これも至近距離で対峙できます。触れるくらい近い(さわっちゃダメですが)。こういうところでは,じっくり時間をかけて見る,というよりボーっとするのが良いのだ思います。
 講堂も拝観できるのですが,ここはパスしました。あと,中之坊は別料金なので(時間も時間だし)ここもパス。大師堂はお参りしてきました。ここはちょっと寂しいところで
したが,6角形のお堂があって,すこし心を引かれました。付近には中将姫をまつったお堂もあるらしいのですが,良くわかりませんでした。

【西南院】
 水琴窟にひかれて庭園を見学してきました。三脚,一脚禁止ということなので手持ち撮影はよいのかと思いましたが,写真は遠慮しときました。代わりにパンフレットからスキャナで写真を取り込み。

   庭園はなかなかのもので,一見の価値あり。シーズンはボタンとしゃくなげの咲く5月連休と紅葉の11月あたりだと思いますが,このあたりは落ち着いて見られないでしょうね。シーズンをはずすのがベストかと思います。
 庭園に入ってすぐ水琴窟がありました。耳をすませば,ツクツクボウシの鳴き声に混じって,「キン・・・,コン・・・」たしかによく聞こえます。実際にきくのは初めてだったので,長いことたたずんで聴いていました。

 庭園は周回できるようになっていて,高台もあり,見晴らしはよいです。申し込めば,庭を眺めながら,抹茶とか精進料理もいただけるようです。こんどゆっくりきてみようと思います。巡回路の一番高いところには「脳天仏」というのがあって,なにかと思っていたら「頭から上全部にききます」ということで,思わず笑ってしまいました。もう手遅れかとは思いましたが,100円でいっぱいお願いしてきました。厚かましいか!
 帰りの順路にも水琴窟があり,ここは楽しめます。また来ようと思いました。

 【帰りには恒例の・・・】
 帰りに,二上山をバックにパチリ。お彼岸には二上山のコルに夕日が沈むのでしょうか?この位置からは左にずれるような気がします。落日までまだ時間はあるので,次回ということで帰ることにしました。麻呂子山をバックに中之坊と東塔を撮りました。



 さて,ウォークの終りはやはり,コレです(写真はお店のサイトからお借りしました)。近鉄・當麻寺駅前に中将堂本舗があり,名物の中将餅を販売しています。もちろん,買って帰りました,2箱も。


変貌する竹内


                                                                    2009年11月7日(土)

        

 4年後の11月、「葛城みち」ウォークの最後に竹内を訪れました。

 その時の様子ですが、竹内はすっかり変わり果てています!絶句ものです。竹薮の古墳の横の道にフェンスが張ってあり、たくさんの幟が。どうや苗木屋の新開店ようです。それはいいとして、竹内の交差点あたりは宅地造成で住宅建築中でした。(15:27)

 

 司馬さんはこのあたりから眺める葛城山が絶品だと書いていましたが、もう無理なようです。前回きたのは2005年9月で、まだ家は少なく、たしかに司馬さんのいう葛城山が望めました(多少荒れ 気味でしたが)。比較写真を載せておきますが、4年でかなりの変わりようです。もう写真を撮ってもおもしろくありません。(写真左:2009年、写真右2005年)

 

2009年
2009年

2005年

 都市化して生活は便利にはなるんでしょうが、生活環境がよくなったとはどうしても思えません。高天原散策をキャンセルしてここまで歩いてきた理由のひとつが、もう一度竹内を見たいということだったんですが、これでは・・・ 竹内街道に少し入ってみましたが、状況はあまり代わりませんでした。これはもう「やむを得ない」と考えるしかありません(15:50)。

  ここから二上山を見ながら當麻まで歩き、當麻寺駅前の中将餅を買って帰りました(16:05)。これはいつも大人気で、写真をとろうと思って置いていたら、いつのまにかなくなっていました!

 (いったん終り)


0 件のコメント:

コメントを投稿