2022年5月29日
久しぶりの北山詣である。いや、それよりも旧周山街道・高浜街道・小浜街道の最初の一歩でもある。
金久昌業さんの「北山の峠」にならって、若狭に通じる古道を歩く。もっとも、「北山の峠」下巻では京都か若狭・丹後へとなっているので、もちろんその道も歩く。
2016年10月29日、頭巾山に登るのに引っ掛けて若狭越を始めて、2018年9月23日に改めて京から再開・出発。2022年5月29日にやっと.若狭越のひとつ、高浜街道を歩き終えたので、ここでまとめておこう。
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京から高浜までの軌跡 |
京から若狭高浜までの街道を歩き終えました。約10回の行程です。
■注
記事は別ブログでアップしていますので、気に入ったトピックを10回ぶん選んで総集編としました。それぞれの回のタイトル画像をクリックまた右端の欄のウRLをクリックすれば、元ブログ記事に飛ぶようにしています。複数のurlを持つ回は画像をクリックしても何も起こりません。右端欄のurlをクリックしてください。
※旧周山街道は時代または行先によりバリエーションがあるので、全部は歩いていません。そのうちに・・・
※鶴ケ岡ー田土間は軌跡が飛んでいますが、gpxファイルがないだけで、大昔のものを入れれば3回は歩いています。gpxファイルをダウンロードできるように考えていましたが、無償版HPは対象外だった!
1.長坂越で杉阪
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長坂越の深掘れ |
■鷹峯に入ると御土居もあるが、いちいち見ていたら山登りができない。御土居のあたりが、京の七口のうちの「長坂口」であるらしい。鷹峯の信号を左折すると、さすがに観光地で人も多い。10:16、光悦寺先の千束へ降りる急坂まで来た。いったん下ってから長坂の登りとなる。
■10:14、府道に合流して少し歩くと「京見峠」。峠の茶屋があったが、閉店している。若狭あるいは丹波から来て初めて京の街が見えることで、京見峠という名だが、今はもう見晴らしはない。杉の間からわずかに見える程度である。
■11:20、氷室別れ。旧周山街道はここを左折して杉阪に降りてゆくが今日はダラノ坂を歩くのでまっすぐ。ここで長坂越はやっと終わり。長かったあ~ もう御免こうむりたい。11:45、氷室のお地蔵さん。なかなかかわいらしいよだれかけをしてもらっている。氷室は名前の通り「氷室」のあった場所とされる。
■氷室から尾根を登って稜線に上がる。峠部分には寺山からの道が来ていたが大荒れ。そこからの登りも大荒れだった。ca.500ピークの肩あたりから北の尾根上はユリ道で歩きやすい道だった。その長いピークの中間部分で林道が現れ、古道は分断、探しにいく気にはならなかった。林道も倒木で大変だったし、とにかく下山に専念。
2.杉阪から千本鞍馬口
杉坂の船水 |
小野郷口から供御飯峠越え−杉阪−前坂と歩き京見峠に戻ってきた。ここも旧周山街道の一つで、杉阪から京見峠までをつなぐことができた。また長坂を歩くのもも面白くないので、船山への尾根を歩き、氷室道に合流、最後は尺八池から大宮に降りてきた。
https://yamap.com/activities/4966153
■登った山:城山:479.6 m
■供御飯峠(くぐい、くごい)はその昔は天皇のお召になる御膳の米(供御くご)を献納するために越えた峠であろう。そこのお地蔵さんは台風で祠を飛ばされ吹きっ晒しだったが、なおも場を支配しているようであった。供御飯峠は地蔵で持つ。立ち去りがたい峠であった。(今は祠は新調されている)
■下山後、えんえんと歩いて千本鞍馬口まで降りてきた。長坂越えの本来の街道はここから北に入るのが順路らしいだが、前回はショートカットしたのだ。一応来てみたが普通の交差点だった。
3.茶呑峠で茶ぁ呑んで竜ヶ坂
茶呑峠の道標 |
今日は山登りなしの街道歩き。持越峠から真弓を経て縁坂峠、大森。さらに、茶呑峠を越えて、鳴の堂の巻道から龍ヶ坂をを降りる。
久しぶりの良いお天気でのんびり歩きのつもりが峠道は大荒れだ。もちろん台風のせいもあるが、この荒れ様は、それだけではないだろう。そんなことを思いながら茶呑峠を越えて竜ヶ坂を降った。茶呑峠の道標には「右 山国 ゆげ 左 下村 志うざん」とある。ここで高浜街道が分岐したらしい。本日降った先は山国郷で、よく手入れされた農村だった。山の荒れ様とは違って美しい村だった。
縁坂峠:https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-381.html
茶呑峠:https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
■持越峠から真弓に入った。持越峠の本来の谷道は荒れていたが、峠手前のジグザグは古道の名残か?
10:05、真弓から岩谷峠の方向を見る。昔、半国高山の後、岩谷峠から真弓に下って、途中の谷で幕営。夜はあたり一面ホタルの乱舞で衝撃を受けた。ボクは田舎出身なのでホタルは日常の事だったが、あんな乱舞は見たことがなかった。
■10:58、縁坂峠。立派な石垣(の残骸)が残されている。倒木や折れ枝、林業資材の残滓多数で、峠名板も散らばっていたので集積した。引き続き北斜面には古ぼけた石仏が安置されていた。金久さんの文章をを読んでみると「この峠を要約すると、新しい植林に両側から追い上げられて、ここにのみ古いものが凝固しているといった感じの峠である。」
■茶呑峠の荒れはマシでゆっくりできた。鳴の堂へのユリ道は快適だが尾根南面で倒木はある。大木が根こそぎ!
14:10、鳴の堂の石仏、石室。石室直撃の倒木はなかったが、散らばった折枝、枯枝も片付けておいた。竜が坂も倒木で荒れていた。明治の陸測図では、坂の途中から神社あたりに向かって直接降りていくようである。
■加茂神社も参拝しつつ、中江に降りてきた。大堰川堤防にはサクラが咲いていた。堤防道を歩いてココに来た。目的は「沈下橋」。コンクリ製だがなんとも風情がある。イナカの橋(土橋、石橋、木橋)がちょっと気になっている。河川敷は公園のようにきれいに整備されている。この街道あるきを考えた時に、ここでテントを張ろうかと思ったくらい 。
4.伏見坂-河原峠、余野坂越-高野道
河原(こほろ)峠 |
旧周山街道歩きで、今回は若狭街道、高浜街道になるかと。今日は大森西町から伏見坂を越えて余野。さらに河原峠を越えて、いったん余野坂に戻り、余野坂越をしたい。ただ、谷道の崩落や倒木が予想されるので、ここは長岡山人さんのレポートに従って、尾根道である「高野道」で殿橋へ。さらに縄野坂を歩いてみることとする。
今回特に越してみたかったのは河原峠。「こほろ」という、なんとも優しげな名前を持っている。旧周山街道、あるいは若狭街道、高浜街道を通った古人ものんびりと通ったのではないか?
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-383.html
■大森西町で伏見坂を越え、周山に行く場合もあるが、五本松に向かい神楽坂を越して、宮脇、鶴ケ岡。さらに棚野坂を越して高浜に至る高浜街道になる。このルートは、和泉ないし鶴ケ岡で分岐して上林、更に丹後・田辺(舞鶴)に至る田辺街道にもなる。
10:34、伏見坂。高浜街道、田辺街道の一発目の峠となるのでちょっと感慨深い。
■伏見坂を越すと余野の外れ。11:10、取り付きから林道を登ってふと右手を見ると、右手の尾根に入る古道が見えた。その道は一旦折り返して尾根の南を登っていく。道はすぐ林道に分断されたが、残すべきものは部分的ではあるが残っていた。残った古道と峠を見ると、「こほろ」という優しげな名前の通りの峠に思えてきた。
■河原峠の西は「こほろ」という優しげな名前とは全く異なる荒れようだった。新しい倒木はなんとか回避したが、谷に降りてからの旧倒木の集積は呆れるほどで斜面に高巻きで回避。金久さんの昔からこうだったらしい。
■いったん林道に降りて金久昌業さん命名の「余野坂」の峠に登ってきた。峠から少し戻った斜面に横に走る道のようなものがある。これが古道だろうとして上がってみた。ほとんどが林道工事で削られたのだろう、ホンマかいなと思うほどのスジにしか見えない。少したどると立派な道になった。まあ、しかし、倒木は不可避である。10分ほど歩いた鞍部でカモチ谷への谷道が分岐する。谷道の倒木集積を嫌って、尾根道をゆく。尾根道は歩きやすい。
■P502の西鞍部で道がふた手に分かれて、左が祇園谷に降りる道、右が高野に通じる尾根道「高野道」である。この高野道が快適だった。特に今年のような豪雨、台風が多かった年は、カモチ谷や祇園谷のような谷道を通らずに尾根道を通ったということだろう。快適な道も下りにかかると倒木が激しくなった。古道に入ってから1時間半ほ
どで高野に着地できた。
■峠の手前で、道らしきものが道路側に進んでいた。地理院地図に 崖を降りる破線路のあるところだ。こんなのがあるから皆さん間違うのだ。今の地理院地図の破線路はあてにならないが、少し前の地理院地図には今まで歩いてきたルートそのものが載っている。なんで正しい地図をやめて変な地図にすんのやろ?と思う。峠を越すと、石材、廃材置き場みたいなところを過ぎて、お地蔵さんを見るとすぐに国道である。
5.神楽坂を越える
神楽坂から原への下り道 |
周山や山国は京都との結びつきが深い。高浜街道を歩いて、京から丹波への変化が感じられるだろうか?神楽坂は思いの外良い道が残されていたし、釜糠も原の里山らしく、生活に根ざした山のように思えた。原は美しい村だ。ロードは長かったけれどもよい山旅に感謝。できれば宮脇までと思っていたが、そう急ぐこともないだろう。次回は海老坂を越して高浜街道に入ろうかと思う。
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-385.htm
■登った山:釜糠 588.3m
■周山を出て約10分、弓削川対岸に前回越えてきた縄野坂の出口を見る。堤防の道標には「右 ゆげ をはま 左 くまた たかはま」と彫ってある。とすると、このポイントは、弓削−深見峠−知見−地井坂越えで小浜に至る小浜街道と、熊田−佐々江ー神楽坂−宮脇−鶴ケ丘−棚野坂越えで高浜に至る高浜街道の重要な分岐点だったことになる。
■さらに20分ほどで五本松着。この交差点には高浜街道の道標があり、「右 しをた 多ぬき 左 くまた たかはま」とある。ここが紛れもなく高浜街道の分岐点になる。

■熊田に入っていく。この風景はボクのイナカの風景に似ていなくもない。周山から熊田、漆谷(佐々江の手前)までは「京北」で、今は京都市右京区であるが、本来は丹波である。周山や山国は京都との結びつきが深て京風なところがあるが、ここまで来ると丹波やなあと思う。奥の小峠を越える漆原、次の峠は佐々江峠となる。
■佐々江峠で南丹市に入る。しかし、もとは船井郡で、日吉町。峠から旧道が別れすぐに佐々江峠の地蔵堂がある。きれいなお動で下の明日ヶ谷の人々がお祭りしておられるようだ。近くには水場もあり、一夜の宿もお借り出来そうだ。
■30分ほどで原に着地。この集落はおどろくほどきれいに草刈りがされている。ボクも先日イナカで草刈りをしてきたが、これほどきれいにはできない。刈った草も残していない。バス停から見える山は釜糠、原の人々が毎日見ている山だろう。この山が紅葉始めたら釜に糠をいれるとか、そういう習わしでもあるのではなかろうか?
6.海老坂越えて、原から島分岐まで
海老坂の如意輪観音祠 |
旧周山街道で、鷹峰、長坂越、周山、佐々江、神楽坂と来て、今回は海老坂越で板橋、原まで往復してから、島分岐まで歩く。若狭街道としては、旧園部領から(北)桑田に行くには2つ峠道があることになり、どういう使い分けをしていたのか興味がある。もっとも、後世、海老坂が荷車対応になってからは海老坂が殷賑を極めたらしい。海老坂の四ツ谷側は玉岩地蔵堂があるため歩きやすい道だったが、板橋側は錯綜した林道で古道はぶつ切りされて、探索する気にはならなかった。峠は保たれていて、古い宝篋印塔や首のない如意輪観音像が残されていた。
https://yamap.com/activities/4707981■四ツ谷亜バス停から(元)五ヶ荘小学校(2007年閉校)。2017年から地域活性化センター「森の学舎五ヶ荘」として使われている模様。
それはともかく、四ツ谷八景「溪川筏乗」の現場である。手前の田原川は「四ツ谷の浜」といわれ、筏場であった。材木だけでなく海老坂を越えてきた荷物も田原川ー大堰川の水運が使えたのだ!

https://www.tamaiwa.com/
■玉岩地蔵堂
本尊の地蔵は若狭・小浜市の八百比丘尼の持念仏と伝えられる。お地蔵様を背負って全国行脚された比丘尼が京から帰る途中ここで休憩。いざ出発しようとすると今まで背負っていたお地蔵さまは動かなくなった。仕方なく大岩の上に安置し若狭に帰ったという。創建は古く天平18年と言われ、法要には若狭や大阪方面からの参詣客で賑わったという。 ■板橋への下りは上記の通り古道はズタズタだった。板橋から原までピストンして前回と軌跡をつなぐようにした。
ここの旧道は快い道でのんびりと往復できた。板橋、原は本当に美しい村だと思う。

■海老坂BS東から旧道が別れる。ここ板橋で原川を渡るあたりの三叉路に「右海老坂 左京道」の道標があるが見落とした。
祭礼の季節、近くの道相神社には幟が建っていた。允恭天皇の皇子木梨軽皇子が、故あって河内谷に潜居、その後宮脇に移ったという話が残っている。

■宮脇通過。ここは、安掛−中−芦生に行くか、静原−鶴ケ岡−棚野坂−名田庄、または鶴ケ岡から別れ洞峠−上林−田辺(舞鶴)に行くかの分岐点。今回は島への道を行く。ここでこの行程で初めて由良川を見た。分水嶺を越えたことになる。前方には「美山名水」さんの工場が見えた。
https://www.tamaiwa.com/ |
本尊の地蔵は若狭・小浜市の八百比丘尼の持念仏と伝えられる。お地蔵様を背負って全国行脚された比丘尼が京から帰る途中ここで休憩。いざ出発しようとすると今まで背負っていたお地蔵さまは動かなくなった。仕方なく大岩の上に安置し若狭に帰ったという。創建は古く天平18年と言われ、法要には若狭や大阪方面からの参詣客で賑わったという。
ここの旧道は快い道でのんびりと往復できた。板橋、原は本当に美しい村だと思う。
■海老坂BS東から旧道が別れる。ここ板橋で原川を渡るあたりの三叉路に「右海老坂 左京道」の道標があるが見落とした。
祭礼の季節、近くの道相神社には幟が建っていた。允恭天皇の皇子木梨軽皇子が、故あって河内谷に潜居、その後宮脇に移ったという話が残っている。
■宮脇通過。ここは、安掛−中−芦生に行くか、静原−鶴ケ岡−棚野坂−名田庄、または鶴ケ岡から別れ洞峠−上林−田辺(舞鶴)に行くかの分岐点。今回は島への道を行く。ここでこの行程で初めて由良川を見た。分水嶺を越えたことになる。前方には「美山名水」さんの工場が見えた。
下吉田大橋で右岸に渡る |
本日は田辺街道、宮脇から由良川右岸の道を和泉まで歩き、洞までバスで洞峠越えに備えることとし、帰りは鶴ヶ岡から和泉まで歩いて繋ぐこととする。コースは全部が舗装車道で、単なる青線ツナギのロードだったが、それでも写真やマップを見直していると、繋いで歩いた街道筋の村々が美しく思えてきて、このコースもちょっと見直した。 下吉田 短い区間であったが、旧街道の風情も感じられて楽しい道だった。田舎の橋が気に入った。後々も橋を撮りながら歩いた。
https://yamap.com/activities/4898049
■宮脇を出て、府道368を越して下吉田に入る。清流由良川!
明治26年陸測図(大正11年修正)には由良川左岸に立派な道が付いているが、それより以前は右岸の道が主街道だった気がする。
下吉田大橋で右岸に渡る。
■島まで来た。ここまで来ると長老ヶ岳も真近に見える。イナカの実家からも、この反対側から見えているの親近感も湧く。この左手が由良川を渡る橋で、前回はこの南詰を通過した。
すぐに和泉で、バスで洞谷まで行って、歩いて引き返しルートを繋ぐことにした。
■洞谷から田辺街道を降ってきて、鶴ヶ岡まで戻ってきた。鶴ケ岡タナセンの広場にある方位盤。ここは、棚野坂で若狭越をするか、洞峠−上林−田辺(舞鶴)に行くかの重要な分岐点である。
■堤防から棚集落を振り返る。
新国道は棚集落の手前で川を渡り、還流丘陵の根元を突っ切っている。洞行バスで運転手さんが「帰りに疲れたらここが近道」と教えてくれた。
■静原の旧道に入る。やっとクルマの少ない旧道!ここまでくれば和泉は目と鼻の先。
8.棚野坂越え
高浜の海の幸は、福谷坂、福谷、石山、石山坂を通り、坂本川に沿って、大滝、蛇頭という変った名前の集落を通り、名田庄の口坂本に降りて、坂尻から棚野坂で国境を越えて、丹波・鶴ヶ岡へと運ばれていた。また棚野坂は郵便屋さんが歩いて郵便物を運んだと金久昌業さんの本には書いてあった。高浜街道・棚野坂は若狭越の重要な幹線だったのだ。昭和26年に堀越峠の車道が開通した後、少なくとも、昭和28年の大水害までは現役だったという。
鶴ヶ岡から盛郷:https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-323.html
棚野坂登り:https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-327.html
棚野坂下り:https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-328.html
■登った山:オバタケダン:▲729.1
■鶴ヶ岡は「京の入口」とか。高浜-棚野坂-鶴ヶ岡-周山-京都と通って行く、若狭街道、京道。今売り出し中の「西の鯖街道」ということらしい。しかし実態はR162で、棚野坂のような古道を重視しているようには思えない。 鶴ヶ岡にはタナセンやパン屋の店もあるので、最低限の買い物はできそうだ。
■25分ほど歩くと田土の福居分岐。頭巾山方面は左折。大昔も含めて3回は通った。少し先でR162バイパス分岐。R162は小浜、高浜への幹線で、クルマは多く、「あほ-ほど」のスピードを出している。特に数台がつるんだバイク隊がやたら多い。最近、死亡事故が立て続けに起ったので京都府警がシャカリキになって取締をしている。ここで旧道に入ってホッとする。
■旧道の風情はいいねえ。合計3回通過。この先のキャンプ場で宿泊。1日1組だけ。オンシーズンはソロは平日だけ。シーズン過ぎということで、土日でも宿泊OKだった。シャワー200円。風呂400円。雨や嵐の場合は事務棟に泊れ、そこにはテレビもある。これで一泊2000円。サービス満点だ。(2016年データ)
■R162の旧国道が分かれて少し上がったところ。この辺りから北が大及(おおぎゅう)の集落があったところである。棚野坂や堀越峠を人々が徒歩で越えていた頃は、鶴ケ岡よりも賑わっていた、と金久昌業さんの本には書かれていたが、廃村。

■堀越トンネル南口には「北桑十景 堀越峠」の古い案内柱があった。若狭越の内、高浜街道は大及から分かれて、右が棚野坂、左が堀越峠である、と金久さんは書かれている。ここから棚野坂の登りが始まるので、左の谷筋が堀越峠への古道(自動車道以前)なのか?未だにその時代の堀越峠やその道筋は分かっていないらしい。この標柱は旧堀越峠(旧国道の)から下ろしてきたものと考えるのが妥当なようだ。 ■六地蔵で休憩後、下りに入る。緩やかな降りであるがちょっとした斜面は深掘れのジグザグ道がついていて、すばらしい坂道だった。深掘れした古道に平行に、あるいは交差するように、少し新しめのバイパス道(これも古道)が付けられていた。道が深掘れし過ぎ、倒木などで歩きにくくなったので、自然に横にバイパスが作られたものと思う。
■下りきって坂尻ゲートを越したところで大休憩。坂本バス停は目と鼻の先である。バスが14:28なので、余裕で遅い昼食と着替え。それでも時間が余ったので口坂本まで行ってみたり、ぶらぶら。
石山坂は通常はトンネル越となっているが、そんなはずはない。
1)坂本側の石山坂旧道と旧峠を探索
2)明治陸測図にある破線路(地理院地図でトンネル口から林道を西約500mほどの所にある稜線の鞍部からP231南の鞍部から東に下る)を通る、の2点を目的とした。しょうもない失敗もあったが、
1回め:https://yamap.com/activities/17564047
探索下見:https://yamap.com/activities/17656299
探索本番:https://yamap.com/activities/17673162
謎論考:https://yamap.com/activities/17806404
■登った山:▲大谷 271.3
■宿泊地の八ヶ峰家族旅行村からえんえんと歩いて口坂本で棚野坂からの道に接続。振り返って棚野坂方向を見ておこう。これで京からの高浜街道がつながったので気分はヨシ。しかし、ロードはまだまだ続く。気温は高いけれども空気は爽やかでそれほど難儀なロードではなかった。 ■途中の村々の風情もなかなかヨロシ。明治陸測図にあった「キリアケ」祠や屋敷跡か田畑跡かと思える古い石組みもあった、お墓やその下にあった石仏にもお花が備えてあり、縁者がお参り、お世話されているようだ。昭和28年洪水で廃村になったというが、まだまだ廃村も生きているようだった。■トンネル口から200mちょっと手前から古道が分岐しているようだった。その上手には林道ができていて、それに並行しているようだが、造林や車道開削で削られている部分もあった。行ってみると道型は明瞭。辿って行った先の旧峠からの景観は息を飲むようだった。

この道はP231の南鞍部で東に下り、現県道の橋南のカーブの広場に降りる。このルートは明治陸測図の破線路そのままだった。以上から、旧峠の石山側が崩落などがあった場合、第2の石山坂として使われたと推定した。

このコース、トンネル越えよりずっと楽しいルートである。
10.高浜街道最終章 福谷坂

通り堂からスタート、深掘れ道を登っていくと峠に出た。まことに峠らしい峠でちょっとした広場もあり、古い石仏と文政十年の大乗妙典碑が建っていた。京から来た人はのんびりと、しかし、高浜から来た人は思い荷物を背たろうて、次の石川坂を思ってのんびりはできなかったろうなあ。
https://yamap.com/activities/17691155

■福谷坂の登りは深掘れの道が続いていた。大栗峠の弓削道どころではない、交野のかいがけ道にも匹敵。しかも明るい道だった。ここの特徴は複線路が発達していること。おそらく半分以上だったのではないか?峠の広場には古い石仏と文政十年の大乗妙典碑が建っていた。
■下りも幅広の道で落葉樹林の中をジグザグに下った。福谷側の登りよりも好みの道だった。短い下りであっという間に旧県道に降り立った。真新しいハシゴが作られていて、崩落部を行き来してさらに崩落が進むのを抑止するためだろうと納得。

■笠原で広い平野部に出た。小浜線近くまで来ると青葉山が見えてきて、やっと高浜に着いたという気分が湧いてきた。本来ならば高浜漁港まで行くべきなんだろうけど、佐伎治神社に参拝し、谷の奥にあるという磐座を見学して終わりとした。
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