2023年2月1日水曜日

竹内街道1


  竹内街道は司馬さんの「街道をゆく」を読んで,一度歩いてみたいと思っていました。お盆休みで,暑さはそうでもなさそうだったので,竹内街道ウォークをしてきました。

竹内街道失敗編  丹比道     堺-松原ー古市

2005年8月13日


より大きな地図で 竹内街道 を表示

 

 結果は標題の通りです。では,その顛末をば。

【むなさわぎ】
 首尾よく6:00に家を出られたので,涼しいうちにある程度のウォーキングができると思いました。JRの駅にきたところ,あれ?快速電車が・・・!というこ とで,乗り遅れました。今日は休日ダイヤか!嫌な感じ。次の普通電車に乗って,持ち物を調べていると,メガネ忘れた,ケイタイ灰皿忘れた,あれっ!ケイタ イに充電ができてない。
 気を取り直して,うつらうつらしました。まず南海高野線に乗って堺東まで行きますが,あれ?難波だったか?天王寺だった か?えーと,難波は近鉄か?ということで,この時点でもう間違ってます。天王寺につく頃,やっぱりおかしいことに気がついて,地下鉄で引き返そうとしまし たが,それより前に,ということで,中百舌鳥まで行くことにしました。あとで考えたら,阪和線で三国ヶ丘の方が竹内街道に近いということが分かって,がっ くり。どうも先が思いやられます。

【案の定1・・・】
 地下鉄中百舌鳥でおりて,地上へ。7:40でした。だいた い,地下鉄の階段をぐるぐるっと上がると方向感覚が狂うのです。以前からこの傾向は分かっているので,地上に出て,まずタバコ一服。気を落ちつかせて,方 向を確認します。エー,あっちに南海線,ということは,こっちでOKと,自信をもって方向を定めました。
 中百舌鳥から北東方向に1km弱もどって,東に折れます。そうすると金岡神社のはずです。地図では東行の道はけっこう大きな道になってます。
 快調に飛ばしていきます。目印のGSを通り越して・・・,何か大きな建物が見えてきました。「しんかなCity」と大きく書かれています。ああ行きすぎ。その先は中百舌鳥の1つ前の駅です。700mくらいオーバーランでした。引き返して東に入る道を探すと,工事中で,地図とは大きく違いました。宅地造成と,どうも,竹内街道の整備も同時にやっているようです。これでは分からん!

【街道らしくなってきた】
 また気を取り直して,ずんずん行くと,街道らしくなってきました。地図にある池も見えてきた(が,ほとんど土砂に埋まっていました)し,学校もある,ということで,間違いないようです。(8:05)

 道沿いには板塀の町屋があって,なかなか古街道風情満点です。写真をとったはずだったのですが・・セーブされていませんでした(ケイタイなので)。まもなく金岡神社が見えてきました(8:15)。町内の人が盆踊りの 準備をしています。櫓の準備ができており,周囲の飾りつけをやっていました。街道はレンガ(透水カラーブロック)で舗装がしてあって,気持ちがよい道で す。路地に入るところには,土地の太鼓の会会員の提灯がかざってあり,寄付受付の掲示板もしつらえてあって,昔ながらの河内の町内会のようです。見上げる と,電柱にも提灯がぶらさがっていました。

【消えゆく古街道】
 まもなく国道に突き当たり,その向うは大泉公園です(8:25)。地図をみるとかなり広い。ここで小休止しました。ぽつぽつと散歩している人がいます。
 竹内街道は公園の南縁を真東に進みます。細い道で,車が多く歩きにくいので,公園の中の駐車場を歩きました。国道が南を併走しており,その脇道のようになっており,歩くにはあまり気持ちのよい道と
はいえません。まもなく,池が現われましたが,水面は一面の菱!水もよくないようで,近くによるとドブの匂いがしました。道の両側は住宅と町工場・事務所が混在していて,悠々と街道をゆくという気分にはなれません。いかにも場末の街道といった感じです。
 八下の住宅街(写真右)に入ると少しは落ち着いた街道になってきます(8:50)。

【岡の思い出】
 西除 川を渡ると松原に入ります。このあたりから見覚えのある風景が出てきます。おじおば老夫婦がこのあたり岡に住んでいて,7,8年前に一度訪れたことがあり ます。いかにも街道らしい風情だったので,すこしブラブラしました。街の中心らしいところの十字路に図書館があって,石標と案内板がたっていました。この 十字路は竹内街道と中高野街道の交差するところのようです。

  「右  ひらの 大坂」    :北方向(中高野街道)
  「左  さかい」        :西方向(竹内街道)

はあー,これが竹内街道か!
 そ れから数年たった冬,おじがなくなったときも,この十字路から西すぐにある公民館でお葬式がありました。時間を見つけて周辺を散策しました。街道から路地 に入ると,古いお寺や,お屋敷,長屋などが混在していて,決して高級ではないが落ちついたたたずまいで,寒風の中,ゆったりと散策した記憶があります。

 こ れよりずっと昔,ボクが小学校のころ,岡には一度きたことがあったのです。この夫婦は,戦後いなかから出てきて工場で働いていました。やっと家が持てるよ うになり,岡に家を建てた(借りた?)というので,ある年の夏,遊びにいったのでした。2階からスイカを食べながら家に前の道路をみていた記憶がありま す。その場所は今回の竹内街道沿いでなくて,新興の住宅地だったようです。家の前の道を少しいくとすぐ行き止まりになり,たんぼやため池があったようで す。大きなコンクリートの土管が置いてあって,排水工事,造成工事の途中だったようです。戦後の高度成長期で,田んぼをつぶして,どんどん住宅を造成して いく時期だったのです。
 そこは,昔から住んでいる人々(主に農家)と新興住宅に越してきた人々の混在した街であったようです。それから数 十年,家々はすっかりなじんでいるように見えます。人々の心もすっかりなじんでいるようで,おばは,今,ひとりで住んでいるのですが,「(こどもと)一緒 に住んだら?」となんべんも誘われたようですが,「ひとりでも,ここがエエ」と,いうことをきかないそうです。幸いまだ元気なようですし,気心の知れた隣 人がいる共同体がよいのでしょう。
 その当時新築だった家々は老朽化し,ほとんど残っていないようです。所々に場違いな?新築住宅もあり, また大きな高層アパートも建っていました。かの公民館には9:00ころに付き,公園でタバコ休憩としました。図書館前の石標の十字路には,数人がバスを 待っていました。こちらはそろそろおなかがすいてきたので,喫茶店でもないかと探しながら歩いていますが,お盆休みの朝9時ではねえ・・・

【丹比の道】
 竹内街道は近世以降の呼び名で,元々は,丹比(たじひ)の道といわれたそうです。松原市のホームページには「松原歴史ウォーク」と「まつばらの民話をたずねて」というサイトがあって
,丹比の道を知るうえで,大変参考になります。
 日本書紀に,「推古21年(613年)冬11月,掖上の池,畝傍の池,和珥(わに)の池を作り,また難波(なにわ)より京(みやこ)に至る大道(おおじ)を 置く」とあります。同じく書紀に,「仁徳14年(4世紀中頃) にこの歳京(としみやこ)の中に大道を作りて南の門より直(ただ)に指して丹比(たじひ)の邑(むら)に至りき」とあります。推古21年には,仁徳14年 の大道を,「国道1号」に指定したものと思われます。すなわち,堺から,松原, 羽曳野,太子の市町を経過し,竹内峠で大阪,奈良府県境を超え,当麻にでるのが丹比の道で,さらに,そのまま横大路と呼ばれる東西道を東へ進み,大和高 田,橿原,桜井の市町を経て明日香へ官道が達していたものとされています。
 学者によっては,羽曳野市郡戸の大座間池付近から,松原に入っ て立部 ・岡・新堂・高見の里・新町・天美に至り,大和川の手前の阿麻美許曽神社まで西北に延びる斜向道路を本来の丹比道であると考える人もいるようで,「まつば らの民話をたずねて」の著者,加藤孜子さんも,推古21年の大道とは,難波から南へ向かい丹比道と大津道に接続する墨の江街道説を紹介されています。

 この丹比道は,後述の「葛城と古代国家」(門脇禎二著・講談社学術文庫)によると,4世紀初めまでは 大和の葛城国の王がおさえていたらしく,この道を通って,河内経由で瀬戸内海に出,垂水を経て丹後や但馬と友好関係を結んでいたらしいです。この時はヤマ ト王国は,北方の木津川経由で摂津か丹波へ出るルートや,紀ノ川経由で大阪湾に出て瀬戸内海へ抜けるルートを確保していたようです。葛城王国は,最短のメ インルートをおさえていたようで,それだけ力も強かったようです。4世紀半には,ヤマト王国は河内に進出,この丹比道をも勢力下におさめたと思われます。
 7世紀後半ごろまでに,大和でも南北等間隔の 直線古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)がつくられていて,河内を通る大津道・丹比道も,大動脈であったことは間違いないようです。この時代,文物は瀬戸内海 を東進し,難波に上陸,大和で消化され,さらに北へ東へと伝播していきました。遠く,朝鮮,中国と大和を結んで活躍した道。あらゆる文明,文化を運び続け てきたのです。
 この道は文明の道だったばかりでなく,戦略・戦争の道でもあったようです。672年の壬申の乱で,大友皇子軍が大和へ攻め 上ったという記述もあり,大軍を動かせる道として整備されていたことが分かります。大きく下って,幕末の頃,土地の人は,徳川の残党達が倒幕の衆に追いか けられている姿にあちらこちらで出くわしたそうです。岸和田のお殿様も同様で,少数の供といっしょに,松原のこの街道筋にある徳川親藩の家を頼って逃げて こられたそうです。逆に,大阪の陣では徳川方が豊臣方を追い,丹南天満宮(丹南三丁目)本殿は大坂夏の陣の戦火で焼失したそうです。

【丹比野の開拓】
 「まつばらの民話をたずねて」(加藤孜子さん)からは,古代のこの地の様子がうかがえます。

ずうっとずうっと昔,まだ人間も神様も動物も仲良う暮らしていた頃のお話やそうですが,この松原から美原にかけて広がる広大な野原を『たひ』(いたどり)が一面を生い茂り,そのたひの葉がしげる地面には蝮がたくさん生息している肥田の土地だったそうです。
人々 はこの地を丹治比(たじひ)の国,丹比の国,蝮(たじひ)の国とよび,肥田が育てる穀物で人間も神様も動物も平穏な生活が営まれていたそうです。こうした 素晴らしい土地に大雀の命(おおさざぎのみこと:仁徳天皇)の第三皇子(後の反正天皇)がお生まれになったと伝えられております。


 なるほど,「丹比」とは,いたどりであり,マムシですか?マムシはちょっといやですが,どうも一望の野原で,川筋などには湿地があって,マムシがいたの でしょう。その川筋をうまく開墾して水田などを作っていったのでしょう。まだまだ一面の水田まではいってなかったようです。

4世紀後半から5世紀,崇神~応神~仁徳天皇のこヤマト王国河内平野の開拓事業を行っていたようです。この頃は,上町の東から生駒山麓までの北河内には大きな河内湖(右写真,写真の本から用)があって,これを活用して水田にしようとしていました。それは3つの大きな事業からなり,1つは狭山池の修営と,そこから流れ出る東除川,西除川を利用した南河内の開拓,2つめは淀川が茨田(今の枚方市南方)から溢れるのを防ぐ,茨田堤の造営,3つめは河内湖の水を大阪湾に逃がして,干拓しようとするものです。(「葛城と古代国家」門脇 禎二 著 講談社学術文庫)


 松原市のHP「松原歴史ウォーク」を見ると,松原市役所の下から上田町遺跡が発掘され,大きな発見があったと書かれています。引用しながらまとめます。
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 そ れによると,弥生時代後期の地層から,水田と自然河川が現れたそうです。この水田はいまから1800年ほど前に作られたようで,43枚の水田が確認され, 1枚あたりの水田の規模は,約16平方メートルと,現在のものと比べてかなり狭いようです。どうも川筋など自然地形を利用して,千枚田のような田んぼを 作っていたようです。また,この水田面に稲株の跡と思われる直径3~10cmの円形の小穴が見つかりました。稲株の痕跡は全国では4例目,大阪では初めて のものだそうです。さらに,南から北西に向かう自然河川跡も確認されました。この河川の中から水量を調節する井堰や多数の木製品が見つかり,水田経営に利 用されたと思われます。
 近鉄河内松原駅前の遺跡では,7世紀後半ごろに巨大な人工運河が掘られていたことが判明しました(丹比大溝)。耕土直下から,幅約10m,深さ約3mの断面「V」字状を呈する溝が延長100mにわたって検出されました(大溝1)。大 溝1は,南西に流れる大溝2と分かれます。この合流点には,分流する大溝2の水流の調整を図るためと思われる杭が打ち込まれていました。溝内より出土した 遺物は,円筒埴輪,土師器,須恵器,木製品などでした。これらの出土遺物より,大溝は7世紀後半ごろにはすでに掘られており,8世紀代には一度溝ざらえが 行われ,新たに杭が打ち込まれたことがわかりました。大溝1は復元すると,松原・羽曳野市境の東除川から取水し,途中,古代の官道である大津道と2度ほど交差し,上田2丁目の寺池を通り,段丘面を西に横断して堺市境の西除川へ至る約4kmにも達する長大なものでした。
 7 世紀後半にこのような大規模で広範囲な人工運河がつくられたことにより,本来,自然灌漑の困難な段丘面に水源が確保され,水田開発が容易となったのでし た。同時に規模の壮大さを考えると,灌漑用水路だけではなく,当初は舟運にも利用されていたのではないかと推測されています。
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 なるほど,ヤマト政権は5世紀にはすごい実力をもっていたものです。このようにして,松原が穀倉地帯へと発展していったのですね。この上田町遺跡は,丹比の道が通る岡の北約2kmのところですが,岡のあたりも6~7世紀にはこのようにして,田んぼが作られたのですね。稲作がもたらされて数世紀,谷あいの千枚田から始まった(と思っている)日本の稲作は,民を養い,ムラ,クニを発生させ,巨大な古墳も作り,官道も作り,都 には大寺院を作り,さらに大潅漑工事で水田を開発していこうとするパワーの源:コメの力というものは・・・いまさらながら,唖然とする思いです。
 そ れを考えると,この田んぼをどんどんつぶしていって成立した戦後の高度成長は,はたしてそれに見合う物や生活をを生み出したかどうか?生み出したとも言え るし,そうでないともいえる。コメを基盤にして成立する社会から石油を基盤にする社会に変化した以上は後戻りはできないのだけれど,石油があるうちに,水 と太陽と自然循環で成立する,社会のオペレーティングシステムを考えないと持たない時代になってきた,とそんなことを考える丹比の道ウォークでした。

【羽曳野】
 立部を過ぎると羽曳野市にはいります。羽曳野とはどういう意味なんでしょうか?すがすがしい名前で羽曳野という地名があるとおもったのですが,羽曳野市の中心は古市で,調べてもよく分かりません。
 阪和道をくぐって国道に出たところで,雨が降ってきました。幸い喫茶店があったので,モーニング休憩します。(9:25)店 は一杯でした。お盆休みで,近所の人が朝食にモーニングを食べに来ているようでした。ホットドッグモーニングで¥470。メロン,バナナ,スイカ,オレン ジ,そして野菜サラダ,たまごがついていてボリュームたっぷりでした。ゆっくり休んで,メールで妻に報告「今,松原を出たとこ」。9:50再スタートで す。
 地図では,喫茶店の西,道路の向こう側に南に入る道があるはずでしたが,良くわかりませんでした。国道沿いに新しい店ができていて, 古い街道の入り口は目立ちません。国道を少し東進したところで南へ行く街道があって,そこに入って,新ヶ池のところで竹内街道と合流しました。付近は古く からの農村のようです。いかにも田舎のバス停という感じのバス停横に神社があって,その向かいから,昔ながらの田舎道にはいります。いかにも古街道といっ た道です。

 池のほとりに,丹比図書館・市民センターがありま した。ここに竹内街道の大きな案内板が作られています。ここでは,丹比の道と書いてきていますが,実は,丹比(たじひ)ということばを知ったのはこの地点 が初めてだったのです。その時は「丹比」の意味も良くわかりませんでした。この地区の名前かなあ?と思っていました。
 案内板によると,「サヌ カイトの道」とも主張していました。丹比の道ができる前までは,もちろん無名ですが,サヌカイトの道だったのだと。二上山あたりではサヌカイトがとれ,鋭 利な刃物となるので,弥生・縄文以前は,二上山あたりから石器をもった人間がこの道を通って狩にきたのだと。なるほど,新しいウリ文句だ,と感心してしま いました。
 まもなく伊勢橋です。名前からして,中世以降,お伊勢参りをする道と
して使われたようです。そのまま行くと病院に突き当たり,道は湾曲しています。道標が,道から奥まったところにある民家の前に建っていました。民家の横は道らしいものがあって,もともとはそこが街道で,今歩いている道は新道のようです。結構雨が降ってきましたので急ぎます。
 10:23,ケイタイのメールがなったので,チェックしたら妻からでした。「どこへ行くの?」交野も雨が降っているようです。「竹内峠,こちらも雨」と返事。

【野中寺】
 細長い池の端を過ぎるとまもなく野中です(10:43)。雨が降っているので,野中寺にいって雨宿りをすることにしました。のなかでら,だと思っていたら,やちゅうじ,なんですね。
 このお寺は,飛鳥時代,聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ,「中の太子」と呼ばれています。境内に,塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っています。ちょうどお盆のお墓参りでにぎわっていました。お染・久松の墓があるらしいのですが,じゃまになりそうなので遠慮しておきました。


 境内には古墳からでたという石棺がかざってありました。帰りしなに,山門を撮ろうと雨の中を待っていたら,3人づれおばさんが門の前で横にならんでじっと待っています。「おいおい,写真とれへんやないの」,とはいえませんでした。



【案の定2・・・】

 あれ?靴がおかしい。ソールにヒビが入ったようです。雨も降っており,常夜燈の前で少し思案しましたが,古市の駅はもうすぐなので,とりあえずそこまで行くことにしました。
 古街道はすぐに広い道に突き当たり,その道を南下します。すぐに仁賢天皇陵が見えてきました。このあたりは古墳が多いところで,地図でみると,野中寺の 北に は仲哀天皇陵,古市の北には巨大な応神天皇陵,狭山古墳,宮山古墳,墓山古墳が点々としています。軽里というところで東に折れますが,ここには峯
が塚古墳があります。

 が,しかし!靴がばらばらになりそうです。水がしみてきました。10:55,屋根のある休憩所があったので,休憩します。靴底をみてびっくり。これでは峠越えはできそうにありません。雨も降るし,11:00リタイア決定。古市までは1kmくらいなので,駅までは持つでしょう。

 歩道橋を越えると整備された街道がありました。せっかくですからここを通ります。街道入口のところは普通の新築民家がたっており,写真がとりにくいのですが,少し行くと,古い町屋がならぶようになりました。石畳の気持ちの良い道なんですが・・・



と,思っていると,完全に靴底が抜けてしまいました。目の前には日本武尊の白鳥陵があるのですが,抜けた底を持って,歩いています。直接足に石があたるので,冷たいと同時に痛いです。ガクッとスピードが落ちました。

 やっとこさで,駅前の靴屋さんに飛び込みました。(11:35)これにて,竹内街道ウォーク終了。これでは歩けないので,お店で靴を買う羽目になりました。お店の女の子に言わせると,「ああ,この靴長いこと履いてないでしょう?この手の靴は,履いてないとこうなんですよ」ということで,もっとちゃんとしたウォーキングシューズを買え,ということのようでした。

【古墳の道】
 古代の死者信仰というのを理解するために,今,「境界の発生」赤坂憲雄著(講談社学術文庫)というのを読んでいます。

 古代にあっては,まず,あっち/こっちの区別から始めたようです。常陸風土記によると,麻多智というひとが部族をひきいて,葦に覆われた谷の原野を切り拓き,田をおこして定住をはかった。そこに,蛇の姿をした夜叉(の神)が人間たちの侵入を防ごうと,大挙して出現する。
・・・人間は土地にひそむ荒ぶる神を殺害し,あるいは谷間から山懐深くへと駆逐していく。そして,1つの「標のつえ」をたてて宣言する。こっちは,人の田で,あっちは神の山である。さらに,荒ぶる神を征服し,追いやっただけでなく,彼らの霊を鎮めるために,祭祀を行うようになる。
「標のつえ」を建てたそこは,地形的には,峠であったり,山裾の広場であったり,川であったり橋であったりする。広場には市が立ち,唄や踊りで魂を送り,場合 により戦場にもなる。その周辺には墓をたて,葬送儀礼を専門にする職能部民(遊部,當麻氏,土師氏,柿本氏)を配置する。

 ヤマトに住む 人々も同じで,ヤマトはこっち,河内はあっち,という観念から始まったようです。ヤマトから見ると,境界は二上山であり,竹内峠です。そうか!古市周辺の 古墳と近つ飛鳥付近の古墳,墓はこういう配置なのか。そういえば,古市の東の石川にかかる橋は臥龍橋,古市も市が立ったから古市なのでしょう。古市の先に は土師の里という駅もあります。検証はともかく,「境界の発生」の記述そのままの土地でありました。これはおもしろい!
古市駅前の喫茶店でコーヒーをすすりながらにやにやしていました。

 今回は変なアクシデントで失敗だったけれど,丹比野の開拓史から稲作のパワーを発見しておもしろい「丹比の道」ウォークになりました。次回は古市周辺から竹内街道ウォークを続けたいと思います。

 

(竹内街道2につづく) 

 


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