2023年1月30日月曜日

通学古道


                          2005年8月15日
                          2008年12月5日
                          2010年2月24日

こんな名前の道があるわけないですが、昔通った通学の道です。夏、冬、早春の記録

【お説教】
 2005年8月15日、イナカへお盆の施餓鬼法要にいってきました。盆と正月といいますが,冬はいけそうもないので,毎年この時期には参加するようにしています。真言宗のこのお寺では読経が終った後,必ずお説教があって,楽しみというほどではないですが,ようやく話が分かるようにはなってきました。
 今年のお説教は,おじゅっさん(と,この地ではいいます)の,どうやら母上のご臨終に立ち会った話でありました。「いままで,こういう商売をしてきました が,実際に人が死ぬ場に立ち会ったのは初めてでありました・・・」という切り出しで,「臨終の間際には,かなりのエネルギーがいるようで,うっ!という呻 く瞬間があって,その後,安らかに眠るように息を引き取る。死出の旅立ちにも,決心というようなものが必要なのだろう。」という,臨場感あふれるお話をさ れました。いつもはざわざわする聴衆も,しん,と静まりかえって聴いていました。
 「そういう体験をすると,いつも死者と相対している僧侶 でさえも,死者にたいする弔いの気持ちがあらためて沸いてくる。これが日本人の素直な信仰心の源泉である。年に一度でもいいから,そういう素直な気持ちを 持ちたい。」「その心は,自分を育ててくれた肉親の霊をおまつりすることに留まらず,他者の死に対しても同じである。この施餓鬼法要も死出の旅立ちを送 り,仏として敬うことで,その心が大切である。」という結びで,説得力のあるお説教でした。

  【通学古道】
 いやいや,そういうことを書くつもりではなかったのです。法要の帰りにふと思いついて,というか,そうせざるを得なかったので,子供のころ歩いた通学古道ウォークをしてきたのを書くのです。

 バ ス停はお寺の下にあります。昨年は11:30ころにちょうどバスがあって,うまく乗れたので,今年もそそくさとお寺を後にしました。(11:15) お寺 の下にくると,バス停の位置が変わっていました。時刻表を見ると・・・,時間も変っていて,11:01にバスが出た後でした。さらに,「予約制」の文字 が!予約がなければ来ないようです。あとで分かったことですが,どうやら,バス会社が倒産して,代わりに市営バスが拡充されたようですが,それでも乗る人 がいないので,電話予約のあった時だけ運行するようです。電話番号も書いてありましたが,ケイタイがつながりません。ということで,とりあえず公衆電話を 探しながらのウォークとなった訳です。(2005年当時。現在は定期運行しています)
 わが小学校は,西と北からくる川が合流する小広い盆地のほぼ中心にあります。わが家は,こ の小学校から西に,小広い谷を一里ほど遡っていったところにあります。遡るといってもだらだらとした坂で,いや坂とはいえないほどゆるやかな勾配をもった 道です。朝はこの道を下っていきます。わが家から枝街道を下り,1kmほどで少し広い街道に出て,お寺の下に来ます。この道を1時間ほど歩いて通学してい ました。
朝はみな一緒にならんで行きますが,帰りは同級のものとブラブラ遊びながら帰ったり,ある いは小川を隔てた田んぼの向うの小道を帰ったり,昔は,このあたりは一面の桑畑だったので,季節になると桑の実をとって食べながら帰ったり,山の尾根をつ たって帰ったり,いろいろでした。そんなわけで,2時間も3時間もかけて帰ったことはざらにあります。面白いことがいっぱいあったので,おいおい紹介しま しょう。

【外界への下り道】
 思いだすままに,下り道の様子を描いていきます。
 お寺の下からすぐに,「八重桜の家」があります。街道から細い道を登っていったところに山裾を削って作ったネコのひたいのような場所に家があります。斜面に は八重桜の古木があって,毎年5月になるときれいに咲きます。もう名前も忘れてしまいましたが,その家の当主はおじいさんの友人らしく,小学校に上がるま えだったかに,その八重桜の大枝をもらったことがありました。当時のわたくしの行動できる範囲では,山桜か普通のソメイヨシノしかなくて,八重桜はめずら しく,子供心に「なんときれいな花やろう」と思いました。今見てみると,八重桜らしい樹が青々と葉をつけていました。

 この地は,秋になると朝霧がたちこめる日が多くなります。霧のひどい日になると,数メート ル先も見えなくなります。この「霧の道」を歩いて通学する訳です。写真は2010年2月、通学当時は舗装されてません。  

 ある霧の深い朝,「八重桜の家」を数十メートルいったところで,急に自転車が表われまし た。わたくしたちの列に突っ込んできて,一人の女の子の手か顔かをかすったようでした。みんな「大丈夫か?」とうずくまる女の子をのぞき込みました。その 人はばつの悪そうな顔をして,自転車からおりて,何やら声をかけていましたが,すぐに自転車で去っていきました。みんなも知らない人でした。幸いけがもな くて,わたくしたちは再び歩きはじめました。上級生は「なんであやまらへんのや!」と怒っていて,みんなも同じ気持ちでした。わたくしは,子供とは違う世 界を見たような気がしました。

 「コーキ君」の家の手前には,北側の谷筋に登っていく脇道があります。脇道の横には棚田が 何枚も作ってあって,段々と登っていきます。少し登ったところには農具小屋があったようですが,今はもう見えませんでした。その谷筋に上がる道の横は山が 迫ってきており,その山裾を削って街道が作ってあります。削ったあとは2~3mほどの崖になっていて,ツツジやいろんな潅木が生えてきていました。

 小学校に上がる前のことですが,母親に自転車の後ろにのせてもらって,家に帰るか,どこか へ行くかの途中だったと思います。ちょうど,その谷筋の道に差しかかったところ,「あれをまっすぐ行くと大阪に行くんやで」と,前で声がしました。「おか しいなあ,大阪は反対やのに」と思いましたが,声には出しませんでした。ちょうどその時,空をみると,飛行機が見えていて,谷筋の道の反対方向に飛んで, 山の向うへ消えてしまいました。「ああ,飛行機のことか」と納得して,「うん」とうなずきました。
 それから12~3年程たって,大学を選ぶ時,京 都でなく大阪を選んだのは,今考えると,このときの記憶があったからかも分かりません。大阪,それは子供心に,とてつもなく大きく,新しく,そして遠い都 会でした。本などで,京都や大阪や東京は知識として知っていましたが,「この方角をまっすぐ行くと大阪」と,はじめて,知識ではない具体的な地名として大 阪を認識しはじめたようです。いつもこの場所を通るたびに,この情景を思い出します。でも,なぜ,ニューヨークとかではないのでしょうかね。まあ,子供だったし,その時代は「外国」などは思いもかけない世界でしたので・・ 
 さらに行くと,母親の友人の家とか,数軒の家がありますが,あまりよく知りません。通学の 途中の家という意識しかなかったです。このあたりまで下ってきて振り向くと(即ち,西をむくと),行者山という,谷のどん詰まりを塞いでいる山の向こう に,さらに大きな山が見えてきます。子供のころの世界ははなはだ狭く,西の谷奥に
は行者山,南は小川と田んぼを隔てて宮が嶽(すごい名前ですが300mそ こそこの高さです),北はすぐに裏山で,峠を越えるか,学校へむかって下っていくことでしか,外の世界を見ることができませんでした。この写真、三岳山は見えていますが写真では不明瞭。

 異世界の大きな山は「三岳山」といいます。大小の台形が2つならんだような大きな山塊でし た。晩秋になるといちはやく雪を被り,春になって,わが谷に花が咲くようになっても,まだ残雪が残っているような,あれこそ「山」という感じのあこがれの 山でした。いつか登ってみたいと思っていましたが,いまだに果たせていません。

【牛の話】
 まもなく「公会堂」が現われます。ここでは村の色々な催し物がありました。婦人会の会合(生活改善の会などか?),牛のつめきり,牛のたねつけ。選挙もここで行われました。季節になると(どの季節だったか覚えていませんが),学校帰りなどによく「つめきり」や「たねつけ」を見ました。

 当時は,和牛は田んぼの耕作用として飼われ,また子牛を育てて現金に換える,という2つの 役目をしていました。わが家も和牛を飼っていました。わたくしが小学校に行くようになってからも,母屋の中に牛の部屋があって,それは玄関を入ってすぐの ところでした。まもなく,別に牛小屋をたてて,元の牛の部屋はわれわれ兄弟の部屋になりました。
 牛の「ごはん」も家の中で作ります。専用のかまど があって,大きな鍋で,刈ってきた草とか,野菜,専用の餌などを炊いて与えます。大根とか芋とか,人間とほぼ同じようなものを食べさせます。さつまいもな ど,まったく同じなので,牛のうわまえをはねて食べたこともあります。春になると食用の草を刈ってくるのが子供の役目でした。牛はほんとうに大事にしてい ました。

 季節になると(多分,春先),牛のこどもが生まれます。覚えているだけでも,3~4回あっ たように思います。これがかわいい!家族みんな,牛のこどもは本当にかわいがって育てました。1年か2年たつと,街に市がたつので,売りに行きます。かわ いがって育てた子牛なので,別れるのはつらいです。車に乗せる時,子牛がいやがるのです。車が恐いのだとは思いますが,子牛も辛がっているようにみえて, それがまた辛さを増幅します。親牛も分かっているようで,普通ではない声をあげてなきます。売りに行くのは,主におじいさんの仕事でした。わたくしは立ち会ったことがないのですが,母親は一度ついていったようで,目を真っ赤にして帰ってきました。
 時代は下って,耕運機を使うようにになってから,牛は飼わなくなりました。わが家では代わりに犬とか,ネコとか色々な動物を飼うようになりました。今,わが家ではネコを飼っています。
 「公会堂」にはもう1つ,通学の必需品がありました。それは「井戸」。夏に4kmの道は, どうしても喉が渇きます。そこで井戸水。「生水は飲むな」と,いわれていたけれど,守れる訳はありません。公会堂の先(学校より)にあるとうもろこし畑で さんざんあそんだ後(言っておきますが,とうもろこしは取ってません。この頃の子供は,どの家の子であれ,絶対農作物には手を出しませんでした。)ここで 一休みするのが,日課でした。 

【消え行く風景】
 「とうもろこし畑」のそばには「堆肥置場」があり ました。コンクリートの枠で囲った,2×3mくらいの場所ですが,冬前になると,牛のふんや落葉やワラを積み重ねて,堆肥を作っていました。別にここだけ でなく,当時はいたるところで堆肥を作っていました。雪がふってもそこだけは積もらないとか,木枯らしの吹く寒い日でもそこだけは湯気がでているとか,そ ういう情景を思い出しました。今はもうとうもころこしの畑も堆肥置場もありません。
昔のトウモロコシ畑はビニールハウスになっていました。

 とうもろこし畑を過ぎると,街道の両側に家が迫ってきて,その間をすりぬけるようにして通 るところがありました。高校の頃ですが,当時は今より寒く,家を出る時に温度を測れば-8℃だったのを覚えています。その凍りついた日,調子よく自転車を こいで,その狭間にきたところ,前輪が一瞬浮いた気がして,あっ!というもなく転んでしまいました。顔から落ちたようです。学校へ行って先生が「なんやそ の顔,ケンカでもしたんか?」というので鏡を見てみると,大きなあざができていました。どうりで・・・。片方の一軒は同級生リョウ君の家で,一家そろって 都会へ出て,その頃はもう住んでいませんでした。今はもう,両側の家もなくて,だっぴろい丘の中を舗装された道が通っています。

 すぐに農協です。小学校の頃は,ここまでくると町に出たような気がしました。お店があるの です。文房具や,おかしや,夏ともなればアイスクリームや,マンガや,少年雑誌もありましたし,当然,農具や,金物や,ありとあらゆるものを売っており, 当座の生活には困らない感じがしました。さしずめ,農家にとっては,今風にいうならば,コンビニ!。学校の帰りには用もないのに,ひとしきり遊んで帰りま した。おつかいも,自転車に乗ってここによくきました。
 いつのまにか,この建物は倉庫になり,その向かい側に新しい農協の店ができ,貯金なども扱うようなりましたが,10年ほど前にそこも閉鎖になったようです。今は建物だけが残っています。

 少しいくと「ぶよもん店」があります。「ぶよもん」とは,よく知りませんが,屋号のようで す。ここはお酒やジュース類,しょうゆなどを扱っていました。もちろん,お菓子などもあります。子供にとっては魅力的な店で,ここへも用もないのに,学校 帰りによくたちよりました。ある夏の日,店のおかみさんが手招きするので入ってみたら,「アイスクリームが溶けた。食べていって」ということで,どろどろ になったアイスクリームの残骸をなめなめ,おなかいっぱいになって帰ったことがありました。
 まもなく,魚屋さんがあります。今はもう家もなく,ここが魚屋だったと知っている人も少な いと思います。魚屋といっても海からは遠いので,生魚は少なく,ちくわとか干物とかそんなものが多かったです。それでも自転車に荷物をのせて,谷の奥まで 売りに来てくれました。新聞紙につつんだちくわなどをよく買った覚えがあります。この店がなくなったのは,パックにビニール類が使われるようになってすぐ でした。

 この店跡からは,小道が分かれていて,川を渡るとすぐ山に入り,小さな峠を通ると新庄で す。そこは,小学校のころは,違う町だったので,この峠は異世界への出口でした。校区内の遠足でたまにいくと,何か新しい世界に出た感じがしました。わが 町は細長いですが,ここは少し広くて,中央に十字路のある道があって,その十字路がなんとも新しく,お気に入りの道でした。近道だというんで,高校の頃は もっぱこの道を自転車で通りました。今は,市営バスが通っています。

         当時はもちろん舗装されてません、野道です。

【バッタの道】
 「カンペイ君」の家跡を過ぎると,田んぼが拡がっているところに出ます。こうなるといかにも農村という感じです。このあたりから,通学道は田んぼの中の農業道を通ります。このウォークではこの道がどうなっているか,あれば歩いてみたいということを思いついて歩きだしたのでした。

 この道は,農作業だけでなく,みんなが通る道で,よく踏まれていて草も生えていませんでした。あたりは南に向かってゆるやかな斜面なので,田んぼは段々になっています。道の北側は土手があって,春はタンポポ(その当時はシロバナがメインで,黄色の西洋種はごくまれなものでした),梅雨どきはホタルブクロ,夏はあざみなどが咲いていました。夏の終りには足の踏み場もないほどバッタがいて,かまわず歩いていくと,チキチキチキ,とないて,バッタは,さらに歩く前の方に飛んでいってとまるのでした。さらにそれを追いかけていく。秋は赤とんぼです。それはそれは楽しい道で,お気に入りの場所でした。朝は学校に遅れまいと,もくもくと歩きますが,帰りは道草のし放題の道でした。
 今,その道を探して歩いていますが,10数年前から大規模な圃場整備があって,今はもう大きな田んぼに整理されているので見つかりませんでした。この道へ入る痕跡だけは発見できました。

 田んぼを抜けると,ため池に出ます。ここでは,よく「川」と書いていますが,ほんの小川で,当地は,必ずしも水が豊富でな く,谷の奥とか,要所には必ずため池があります。西の谷のどんづまりの行者山の下にも大きなため池がありました。池には村の人共同で,コイやフナを飼って おり,数年に1回,秋になると水を全部放流して,底さらえをかねて魚をとることがありました。学校帰りにはよくその場面に遭遇し,長い間,魚をとるのを見 ていた記憶があります。

 池を過ぎると,バッタの道は,ちょっとした丘の狭間の中に入ります。ま わりは畑です。振り向けば,遠くに山が見えて,あれが三岳山なのです。毎日この山を見ながら通学していました。帰り道には,ちょっとした遊びをしながら 帰っていきました。上級生(かガキ大将)にいいつけられて,道に線をひき,「1000数えるまでかえったらアカン」といって,みんなを留め置きなが ら,1000数えてから一目散に追いかけていく,というようなことをしながら帰っていきました。ちょっとした意地悪とかいじめなんだと思いますが,いじめとは思わず,当時はいじめといってもこんなもので,なにかかわいらしいいじめでしたね。

                                                ほぼ同じ位置から振り返る(西向き)

 工務店(まだあった)を過ぎると,林の中の細い峠道になり,急な暗い坂を一気に駆け下って小学校につきます。この道をはじめて通ったときは,小学校1年生で,みんなと一緒に通学をはじめた日でした。朝遅れそうになって,走って下った記憶があります。遅刻でもしたらたいそう怒られると,気が気でなく,泣きそうになって一生懸命走りました。今は道も広くなって,舗装がしてあり,当時の面影もじっくり考えないと出てきません。

小学校に至る峠です。当時は見通しもよくなく向こうの街は見えませんでした。落ち葉の敷き詰められた道を、峠から決まって走り出すのでした。
小学校に至る峠です。当時は見通しもよくなく向こうの街は見えませんでした。落ち葉の敷き詰められた道を、峠から決まって走り出すのでした。

【小学校の面影

 さて,小学校です。15年ほど前にのぞいた時は,まだ木造の校舎で,茶色の板壁に白枠の窓をもった,いかにも昔の小学校 だったような気がしましたが,本館はコンクリートに変っていました。別棟は,まだ木造でした。ベージュのペンキ塗りになっていたとはいえ,校舎の造りは当 時のままでした。正門は石で,これも当時もままです。その横には二宮金次郎の石像があって,場所と向きは違うが,これも当時のものを使っているようで,何 か安心しました。

 校舎の奥にはかなり広い運動場があって,その西向うは斜面になっていてそれを下ると田んぼ,北側にはちょっとした山で,学校管理の公園のようになっていて 「城山」と呼んでいました。ほんとうの城山は,先程のバッタ道がとおる峠の東に連なる小高い山で,城というより,館程度の建物があって,この地をおさめる 代官がいたときいています。

 木造校舎の硝子を割ったことがあります。休み時間に,なぜかウマのあう女の子とふさげていて,ホウキかなにかを投げつけたら,あらぬ方向にとんでいって,窓ガラスを直撃しました。カッシャーンと冷たい音がして,一瞬,「映画のように巻き戻しができへんかな?」と,アホなことを思った記憶があります。その子と一緒に硝子をかたづけて,幸い,先生に正直にいったら許してもらえましたが,その子とはそれ以来疎遠になってしまいましたね。

  プラタナス】
 校庭の端にはプラタナスの樹がありました。小学生の 当時は,プラタナスなどという樹は知らず,見たこともない大きな丸い実がなっていたので,「なんの樹やろなあ?」と思っていました。図鑑でしらべて,やっ とプラタナスというのが分かったのでした。近所の野山にはない,「なんとハイカラで都会的な樹やなあ」,と思っていました。
 プラタナスといえば,好きな句を思い出します。


プラタナス 夜(よ)もみどりなる 夏は来ぬ    石田波郷

「夜もみどりなる」。夜に色をつけてしまったんですねえ。夜でも外に出ていこうとするすがすがしい気分が溢れていて,さあ,夏だ!というわくわくした気持ちになれて,とっても好きです。

(ぷらたぬす)      (まなぶた)
篠懸樹 かげを行く女が 目蓋に 血しほいろさし 夏さりにけり      中村憲吉

プラタナス

 まさか小学生のころはこんな短歌はしりませんでしたが,中学・高校と進むにつれ,こんな歌も知るようになりました。
ま さに,時代はこれから夏!街路樹や公園樹によく使われるプラタナスは,新しい世界の象徴のようなもので,「血しほいろさし」というところがなんとも若々し く,なまめかしく,すっかり好きな歌になって,一所懸命覚えた気がします。「かげゆくこらが」と覚えたような・・・。この歌の持つ,都会的な新しさ,若々 しさにあこがれがあったのでしょう。わたくしのいなか時代は,そんな時代でありました。

 小学校の前には,神社があって,大きな杉の樹がありました。夏にはここでよく,映画とか,旅芸人の芝居がかかりました。境内は村の人でいっぱいになり,へいによじのぼって見たような記憶があります。夜なのにあぶらぜみがうるさく鳴いていました。今は祠の位置もかわったようで,大きな杉の樹もなく,静まり返った神社なっていました。


 すぐそばには農協本部がありました。昔は町(村)単位で農協があって,ここが周辺の村の中心だったのです。その農協もあたらしく建て替えられ,昔の建物はただ残っているだけでした。さらに,その横には妹の通っていた幼稚園があります。これは健在で,昔よりかなり広くなっていたようですが,昔のままの風情でのこっておりました。中学生のころ自転車で迎えに行って,4キロの道をのせて帰ったことがよくありました。

 バス通りにでると,昔はいろんな店がありました。郵便局,散髪屋,医院,豆腐屋,よろずや,ドロースを買った店,アイスキャンデーを作って売りに来 ていた店,マンガをかった店,音楽のS先生の家,みんなこの通りにあったはずですが,今も開業しているのはありませんでした。郵便局,よろずやと散髪屋は 新しくできたバス道の方に店が移っていました。お盆のお昼ではありましたが,シンと静まりかえって,だれも道にでていなく,本当に人が住んでいるのか?と 思うほど静かで活気のない街になっていました。
 12時をかなり過ぎて,昔のマンガ屋さんの前でやっと公衆電話ボックスを見つけて,タクシーを呼びました。


【プラタナスに代わるもの】

 通学古道を歩いてみて,あらためて愕然としました。小学生以来だから大きな変化はあるにせよ,その変化が終って,「止まった道・まち」になっていました。
わ たくしは,わが谷もわが村もそう嫌いではなかったけれど,「峠の向こうには大きな山がある」とか,「山を越えていけば大阪」とか,「プラタナス」の新しさ にあこがれがあって(その時はそう意識はしていなかったけれど),大阪に出てきました。貧しかったけれど,ぼんやりながら,目指すものとか夢があって,そ れなりにいきいきと学校に行っていました。考えてみると,みんなわたくしのように,「プラタナス」にあこがれていたようで,みんな都会にでてしまったんで すね。時代が時代でありました。
 今ここに住む子たちはどうなのか?「プラタナス」を感じているのかどうか?わたくしたちは,その機会を提供できているのか?わたくしたちのあこがれは良かったのかどうか?
 止まってしまった故郷の風景をみていると,途方に暮れるばかりで,懐古趣味の文章を書いていますが,わたくしの「プラタナス」に代わるものを何か考え,提示していくのがこれからの役目であると,そう思ってタクシーに乗りました。

(おわり)

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