2013年9月17日
2013年9月23日
かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道は東高野街道が有名ですが、高野山や大峰山へ行くには少し東の山側にある山根街道も同じように使われたと思います。したがって「高野みち」のサブカテゴリに入れました。
地図を見る限り東高野街道のほうがまっすぐで近いかもしれません。どういう風に使い分けたのかが興味あるところですが、「ちょっとぐらい遠てもええやん、古い村々があるっちゅうし、なんぞうまいもんでもあらへんかな、おもろいやん」という輩が通ったのか?
今まで細切れには歩いていましたが、この際、私部から八幡まで通しで歩いてみようと思いました。
このコースはさんざん歩かれていて、途中の名所旧跡の解説も詳細なものがあるので、あまり書くこともないので、その引用程度にしたいと思います。
極めつけのサイトは、交野古文化同好会
http://murata35.chicappa.jp/hosinomati/katanokodo/yamanekaido.htm です。このコースを基準にさせていただき、http://myippo.com/kaidou/yamane/yamane1.htm (yanyanさん)も参考にさせていただきながらルートを設定しています。車道歩きは避けたいので、その部分は勝手に道草していますので、あしからず。
地図はブルーの線を見てください。
<赤>は本来の山根街道のルート、
<紫>は東高野街道、
<緑>は第2の山根街道、山の根の道あるいは山根の道、あるいは山根街道とも言われている道です。
人が歩くのに決められたルートはありませんので、それらしいサブルートや道草ルートも入れています。
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山根街道 を表示
1.逢合橋~上ん山の辻
種々の事情で、逢合橋からスタートし、東高野街道との接続点「上ん山」の辻までいって、そこから引き返して私部の村に入っていきます。
上ん山というのは「上ノ山」が訛ったものでしょう。確かにちょっとした台地になっています。
交野の地名についての極めつけは、
http://www.cwk.zaq.ne.jp/fkfzb100/yumesite/timei/index.htm
■天野川にかかる逢合橋
東詰 |
逢合橋から南方、第2京阪を望む |
最近、逢合橋の袂(西詰)に万葉歌碑ができています。
牽牛 与織女 今夜相 天漢門尓 波立勿謹 万葉集巻十 二○四○ 不知読人
読み下し文は、
彦星と 織女(たなばたつめと 今宵逢ふ 天の川門に 波立つなゆめ
2012年3月にできたてです。なかなかロマンチック!
■旧道分断
逢合橋西から枚方富田林線を少し南にいきます。これが旧道ですが、ちょっと考えものです。あのマンションの前を右に曲がって新しくできた第2京阪のアクセス道路に当たりますが、そこが渡れない。信号までかなり戻る必要があります。今は第2京阪が横断するので昔と感じが違ってきましたが、なかなか気持ちの良い道です。マンション前を過ぎると、完全にシャットアウトです。アクセス道路ができるまでは、いかにも旧街道らしい地道が続いていました。アクセス道路の工事中も通れた。(2013年9月現在、Googleのストリートビューでも当時の様子が見られます)
■東高野街道に接続
上ん山です。たしかに坂を登ってきて丘の上にある。石碑の向こう側が東高野街道です。道標とお地蔵さんが建っています。
大きいほうは、大峰山の道標で、
南面 「大峰山 右宇治 左京八幡 道」
東面 「■■ 高野 大坂道」 ■■の崩し字は読めませんが、「直ぐ」かな。
あとの面は読めていませんが、「安政二乙三月建之 世話人・・」と彫ってあるらしい。
小さいほうは、あまり読めませんが、読んだ人(yanyanさん)のレポートによると、
「すぐ東高野街道星田停車場」
「右 山根街道 私部津田山城道、すぐ東高野街道 京道」
「明治三十七年一月建之大阪府」
http://myippo.com/kaidou/yamane/yamane1.htm
北向き写真ですが、右が山根街道、左が東高野街道です。
■スタコ坂またはスダコ坂
引き返します。逢い合い橋を渡ると東にもうひとつ橋があって、砂子橋、すたこばし。名前の由来は、例によって
http://www.cwk.zaq.ne.jp/fkfzb100/yumesite/timei/kisabe1.htm#sutakozaka
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanekaido/index.htm
前川と天野川の合流点に発達した中州が開墾され、その中州への連絡道路に対する坂道。たしかに、中洲のような場所があって、今は家が建っています。
東詰には道標があります。右 岩船 くらいしか読めませんが、読んだ人(yanyanさん)によると、
「右 岩船街道 大和道 左 私部 倉治 津田道」
「左 岩船街道 枚方道」
「明治三十八年四月建之 大阪府」
■うまい具合に機関車トーマス
すっかり京阪交野線の名物になりました。一帯の風景になじんできています。http://www.keihan.co.jp/traffic/railfan/thomas2013/timetable.html
契約などもありましょうが、継続運転してくれないかな。赤のパーシーもエエで。
2.私部をあるく
私部です。
私部、私市は珍しい地名といわれるようですが、ボクのイナカにも私市があるのです。京都府は綾部に私市があり(福知山市にも隣接して私市がある)、私部もありました。
和名抄によると、平安時代には、丹波国何鹿郡に16の郷があり、私部郷が載っています。綾部市資料館によると、私部でキサイチと読ませるようです。そんな訳で、特に珍しいということもないのです
綾部市資料館:http://www5.nkansai.ne.jp/off/a-siryoukan/%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8.htm
私部という地名がどうして付けられたのかは、よく知られたように、
日本書紀 巻第二十 淳中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)天皇(敏達天皇のこと)の条に
五年春三月 巳卯朔戊子 有司請立皇后。詔立豊御食炊屋姫尊為皇后。
――中略―― 六年春二月 甲辰朔 詔置日祀部 私部 ――後略――
とあって、この私部(きさいちべ)から来ています。
私部は皇后のために付けられた土地を耕作する農民や身の回りの世話をする人々部民のことです。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は、のちの推古天皇。要は、額田部皇女で、姿色端麗(みかおきらきらしい、ビックリするような美人だったらしい)、欽明天皇の第三皇女であり蘇我馬子の姪が皇后になったわけで、当時く宗教を巡る主導権争いをしていた物部守屋が宮廷工作上、勢力の中心地であった交野の地を皇后に献上した訳です。このときから交野の村々は皇后の部民に組み入れられた。
一方の丹波国の私市、私部は、日本書紀・雄略記に、「・・・一七年春、…土師連等に詔して、朝夕の御膳を盛るべき清器を進(たてまつ)らしむ。是に於て、土師連の祖吾笥(あけ)、仍りて摂津国来狭狭村、山背国内村・・・丹波、但馬、因幡の私民部を進る。・・・」とあり、部民制が雄略よりあとの5世紀後半に置かれた品部を起源とするので、在地の有力者土師連等の私有民であったと思われます。これが後に郷の名前になった。
http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/koto/kyouto/k_maruyamakofun.html
丹波国の私部は由来が違いました。
■私部の街に入ります
大き目の地図を載せておきました。右上の市場橋で郵便局での用事を思い出したので、引き返しました。なのでルートは迷走気味です。
■カイズカイブキ
イブキの変種。イブキは本州・四国・九州の主に太平洋岸の海岸岩場に生育して、乾燥には強い。幼樹の頃は針葉で、次第に鱗片状の葉を付けるようになり、カイズカイブキは常にこの鱗片状の葉を付けるものが選抜されたものといいます。
2009年2月6日 |
季節によって表情を変えてくる。見飽きませんな。
■ちょっと道草
南の路地に入ってみます。
向井田や私市へ向かう道すがら・・・・全部掘り起こすのでなく、たとえ半分でも残しておくというのが気に入ってます。
落合橋の南。灯篭の名残でしょうか。今は私部南という地名ですが、昔はこの橋が私部のはずれだったのでしょう。ここは月1回の散歩コースみたいになっています。
■さて、私部の街道筋です
■重要文化財・北田家住宅
その塀です。母屋は、宝永5年(1708)から享保19年(1734)の間に建てられたものと考えられています。建てられた当初は茅葺屋根でしたが、寛政8・9年(1796・7)に本瓦葺に葺き替えら、昭和59年からの保存修理工事で茅葺形銅板葺となりました。
詳しくは、
http://www.max.hi-ho.ne.jp/souzenji/katano/katano_3.htm#g
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanekaido/index.htm
このくらいしか分かりません。読めそうで読めないのでイライラ。
北田屋敷は天保14年(1843)に建てられたものと推定されています。長屋門ともいい、民家としては最大級の長さを誇っています。大門は、桁行3間(5.61m)、梁間2間半(4.92m)。部材はすべてケヤキです。
はて、これは何でしょう?塀の中がどうなっているか知りませんが、たまった雨水をうまく逃がすための仕掛けか?石をくりぬいて漏斗みたいな受け口を作っています。恐れ入りました。
■お寺の街、私部
札の辻橋から路地を北に取ります。ゆるやかな坂を登ると無量光寺。浄土真宗本願寺派のお寺です。ご本尊は阿弥陀佛で、室町時代の木造立像で高さ三尺とか。中に入ったことはありません。銀杏の巨木が有名です。このほか、ボダイジュとカイズカイブキも交野市の指定樹木となっています。
2013年9月23日 |
ここら辺の石垣に2体の石仏がはめ込まれておられるらしい(石垣地蔵)。その気になって探さないと見つかりません。臨済禅のお寺です。光通寺は私部城跡の縄張り図(中井均氏)を見ると私部城の出郭の一部のようです。
私部城について詳しくは、
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/kisabe02/kisabejyomito.htm
光通寺のフェンス。なるほどこういうやり方もあるのかと納得。
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■川を渡ると倉治
川は免除川。免除川は元々は機物神社の北側を流れ、しばしば倉治で洪水を起した。そこで室町時代に川の付け替えを行い、倉治、私部、郡津領の田畑に新しく川を通した。その代わり川沿いの田畑については、年貢を免除した。これが免除の由来だそうです。
農協の倉庫か?
写真に見える道をまっすぐ行くと青山。反対側はすぐに幾野の広い道がカーブしているところです。どちらもクルマやバイクでよく通りますが、現地を歩いていると、そんな位置関係にある場所とは思えない、見知らぬ場所に来ている感覚になります。
■大仏坂
この先に大仏町のバス停があります(左写真)。右写真で、今回は左に曲がりますが、右(南)に曲がると、下り坂がだらだらと続きます。この下り坂を「大仏坂」と呼んでいます。故奥野平次氏によると(ふるさと交野を歩く・ひろい話)、「奈良の大仏様の鋳型に銅を流し込む段階でどうも上手くいかないので、宇佐八幡宮の付近にいる渡来技術者に来てもらった。彼らは交野の傍示に上り、生駒の傍示に通じる「大仏の道」を通って東大寺に急いだ。その仕事を終えた技術者がここの地区で仏様を作った、または、住み着いた」とされています。
しかし、交野の地名~倉治編では、
http://www.cwk.zaq.ne.jp/fkfzb100/yumesite/timei/kuraji1.htm#doumae
倉治の教育文化会館の南の庭辺りに大仏様持仏堂を祭る堂が建っていて、そのお堂の前から南へ、私部への道が始まる。倉治の土地より免除川の低地へ下りる坂道が「大仏坂」であったと考えられる、と書かれています。
■交野教育文化会館
教育文化会館は、元、交野無尽(近畿大阪銀行の前身)の建物で、昭和4年(1929)に建てられました。発展的解散により、昭和17年 交野町へ庁舎として寄贈され、その後、交野市立教育文化会館として利用されています。平成16年(2004)には交野市歴史民俗資料展示室がはいり、平成19年(2007)には国・登録有形文化財に登録されています。
歴史的な文化財を使って、歴史的な民俗文化を展示しているところが、ポイントの高い所以ですね。
■堂の前を通る諸道
教育文化会館南の四辻にバス停があり、その辺りに道標がありますが、写真失念。そこは、「大仏坂」で触れたような理由で、堂の前(堂前)というのだそうです。
堂の前の道標には「すぐひらかた」「すぐたき」「右京八はた道」とあるので、堂の前の辻から10m北にある路地が八はた道でしょう。「すぐたき」のたきは源氏の滝か?確かに、入った八はた道(八はた道はまもなく北に曲がりますが)をまっすぐ行くと源氏の滝に通じる。辻の西側には幾野に通じる道がありますが、1961年の空中写真を見ると、その道は存在せず。大仏坂の郵便局の辻から直接、郡津へ行く道があるだけで、幾野の集落などは存在せず、だだっ広い田畑があるだけでした。出鼻橋を経由して枚方に向かう今の府道7号が「ひらかたみち」でした。
■「右京八はた道」
その八はた道を行きます。お屋敷もありますが、コナレタ家もある。しかし立派に現役で使っているところがすごい。
この道は倉治の南端をかすめる道で、この角を曲がると倉治の中心部へいくようです。行ったことはありますが、写真が全部消えました!山根街道はまだまっすぐです。
■ちょっと倉治の中へ道草
旧街道はまっすぐ、倉治交差点、機物神社の鳥居前まで行って北に曲がりますが、ちょっと道草して北に、倉治の村に入ります。
ちなみに、機物神社は今回立ち寄りませんが、本殿、拝殿は南向きである。正面は南で神社の出入り口も南にあったようです。南に向いて鳥居もあった。古い地図を見ると神社から南向いて参道が伸び、その端に鳥居のマークが付いているそうです。
http://www.cwk.zaq.ne.jp/fkfzb100/yumesite/timei/kuraji1.htm#hatamonojinja
1961年の空中写真でも鳥居はさすがに分かりませんが、南に向かって参道が延びているのが分かります。
倉治の田舎家。もちろん現役です。倉治は農村を中心に発展してきた集落で、私部は城下、商売中心。倉治のこの風景をみているとそんな感を強くします。
道が枡形みたいになっています。小川に石橋があり、そこに洗場があります。「二平川の洗場」というようです。洗濯したのか野菜を洗ったのかは分かりませんが、水の得やすい農村の集落にはだいたいこん場所があって、村の人々の井戸端会議の場所だったのでしょう。先日の台風18号の影響で、まだ水が濁っている。
二平川の洗場 |
■桜堤で思案
さて桜堤で、まもなく津田に入ります。ここでちょっと思案。このまま車道を歩きたくはない。津田駅前周辺は狭くて歩けたものではないです。すぐにわき道決定。ちょっと山側に入り、駅前をパスします。
ここには池が2つあり、その1つがこれ。もう1つは今は関西スーパーになっていますが、かご池というのがありました。たしか1980年頃にはあったと思いますが、空中写真をみると、1984には更地になって、1989年頃には何か建っています。昔はちょっとモダンな焼肉屋があって、誕生日になにかプレゼントがあるので何回か来たことがあります。はやらなかったか。
かご池はその名の通り、かごのように水がもれたのだとか。池の役目を果たさないので、廃池はやむなしか。
かご池のあれこれ:http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanekaido/index.htm
■長い間ご苦労様、大阪府警察学校
関西スーパーの裏手の旧道を行きますと大阪府警察学校の正面にきます。が、何もありません!取り壊しの最終段階で、ほとんど更地!
1965年に建設され、今年の3月に泉南郡田尻町に移転しました。警察学校が現役のころ、よく通りかかりましたが、大声で訓練していたのを思い出します。
ま、ボクは警察にお世話になったことはありませんが(いや、泥棒が入った時の捜査とか、生活の安全とか本来の意味ではお世話になっている)、ご苦労様でした。
敷地は大きく3段になっていました。石段の上が2段目。相当広いです。跡地の活用策はまだ決まっていないのだとか。交野の山を背にしたロケーションを生かして、有効に活用してほしいものです。財政難だからといって切り売りして陳腐な住宅など建てるなよ。
2段目 |
3段目 |
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