これから長尾を歩きます。長尾峠を越えると八幡で、まもなく山根街道は東高野街道に接続します。長尾は広いですが、いたるところに菅原という名前が出てきます、なぜか。
昔は、交野から長尾にかけた一帯を、交野ヶ原と呼んでいました。ハギやススキが咲き乱れ、散在する池にはカモなどの水鳥が羽を休める静かな地であったと伝えられています・・・と書くといかにも風流ですが、要は丘陵地は荒野で水田もできにくい原だった。
この地を長尾と命名したのは、江戸時代の領主久貝氏だと伝えられています。理由は、河内の北の果ての尾のようなところだからとか。元和元年(1615)大坂落城の後、旗本の久貝因幡守正俊(くがいいなばのかみまさとし)が河州交野郡を拝領し、荒地ではあるが山城との国境で、交通の要所、戦略上の要地であったため、ここに陣屋を営みました。
久貝氏の家来、細谷善兵衛は、当時
13戸の村民や近隣村民を集め、長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造りました。その後、慶安三年(1650年)には
33戸にまで増加し、そこで、長岡天神の分霊を受けて「菅原天神」の建立しました。これが長尾の菅原神社です。
http://www.shoai.ne.jp/hirakata/jinjya/f130116/f130116.html
明治22年(1889)の町村制施行で長尾村と藤阪村が合併して、両村とも鎮守社がそれぞれ菅原神社だったことから、菅原村が誕生しました。昭和15年(1940)には、津田・菅原・氷室の3村が合併して津田町となり、菅原村はなくなりました。さらに昭和30年に津田町が枚方市に合併されたため、長尾○○町名が復活したという訳です。菅原という名は学校や地域の施設などの名前として残されています。
茫漠たる野に花が咲き、水鳥が立ち寄る風流な土地だったのだ。
以前は、招堤から船橋川沿いの道をバイクでよく走り回りました。その時、長尾駅近くで西の丘の方に土塀や板塀の家並みが続き、いかにも古い街道が走って るなと思ったことがあります。そこでも一度クルマでも通ってみました。あまりの狭さに難儀したことがありますが、そこが山根街道だったのです。
1.長尾・菅原界隈
萱葺きでもないようですが、萱葺きのデザインを取り入れた?同じ仕様のものをどこかで見かけた気がします。後ろは普通の瓦でした。
ため池と田んぼ。向こうには府道が見えます。バイクでよく通ったところ。
2.長尾荒坂から2つ峠越え
家具団地に入ります。平日のためか人通りもすくなく、閑散としています。
下は「枚方市長尾台一土地区画整理事業 竣工記念碑」です。土地区画整理事業組合と大阪家具コンビナート工場団地協同組合が立てたようです。昭和44年の着工で、昭和48年の竣工だそうです。ここに「家具団地体育館」がありましたが、解体されたようです。
旧道はメイン道路から外れて、西のちょっと低いところを通ります。ここが正解なのかどうかは分かりません。その旧道から出てきたところ。家具団地への入り口です。旧街道はここからまっすぐ北上します。
ふと思って、洞ヶ峠周辺の開発状況を航空写真で見てみました。写真を掲載すればよいのですが、許可は受けてないので・・・
戦後、1960年代初めまでは航空写真を見る限りあまり変わっていません。山根街道はくっきり写っています。沿道は峠の集落はあるし、田んぼの中は通りますが山中を通ることはない。一方の東高野街道は、谷道~円福寺前経由の道は鮮明ですが、招堤田近のあたりにちょろっと集落があるだけで、出屋敷まで、沿道は田んぼか山でなにもない。尾根を通る八幡安居塚の道はうっすら見える程度です。どう考えても、寂しげな東高野街道よりも、山根街道のほうがよく使われたと思えます。
状況が一変するのは1966年に国道1号線枚方バイパスが開通してからです。1970年代はもうむちゃくちゃに切り刻んでいます。怖くなりました。1948年の写真は米軍撮影ですが、同じ人が撮影したとしたら「なにやってんねん、コイツら」と思うはずでしょう。
年 | 山根街道 | 東高野街道 |
枚方バイパス |
1948 | 道は明瞭。沿道に集落(長尾峠)があるため、東高野街道よりも使われた形跡がある | 谷道~円福寺前経由の道は鮮明だが、沿道は山でなにもない。八幡安居塚の道はうっすら見え、尾根を通る峠道らしい | 未開通 |
1956 | 同様 | 同様 | 未開通 |
1961 | 同様 | 円福寺南の高野道周辺は道がはっきりしない。洞ヶ峠周辺は尾根に道筋がみえる | 未開通 |
1969 | 家具団地の造成が始まって、街道周辺は更地。長尾峠のあたり(今の大学周辺)も更地になっている? | 洞ヶ峠周辺は造成が始まり今の墓地周辺更地。この時、旧街道は破壊されたかと思う。 | 1号線が見えだした |
1972 | 家具団地造成中 |
高野道あたりも造成 男山団地が造成中でむちゃくちゃになっている |
招堤工業団地造成 |
1975 | 家具団地が造成され建物が見えている | 洞ヶ峠周辺の山の中にほそい道が見える。 | |
街道周辺はあちこち虫食いを通り越して更地だらけ | |||
1985 | 開発は一段落し小康状態。ちょっと落ち着きを見せている |

さらに唖然とすることが。ここには(写真の左の外れ、道路脇です)、昭和2年で比較的新しいですが、「三宅安兵衛」の道標があったのです。過去形です。それがなくなっている。WEBを調べると、2009年にはもうなかったのだとか。八幡市の観光協会の公式サイトに質問ページがあったので消息を問い合わせしましたが、1週間ほど経って、返事が来ました。トラックがぶつかりへし折られて撤去、今は「ふるさと学習館」の敷地に転がしてあるそうです。訪問すれば、職員の方が説明してくださるとか。返事がないので、どうなったかと思っていましたが、台風被害(流れ橋が破壊)で、それどころではなかったのでしょう。こんな大きな道標にぶつかるか?
(2013/10/2;八幡市観光協会から返事があったので、本文を修正しました)
この道標には以下のように書かれているはずです。
「向って左 西二子塚三丁 美ノ山 三丁 長尾三十丁 峠五丁」
「聖徳皇太子御自作 達磨大師霊像安置 江湖道場圓福禅寺」
「向て右 洞ヶ峠二丁 円福寺五丁 田ノ口三十丁」
「昭和丁卯二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
これで終点なので終わってもよいのですが、バスが出たとこです。八幡まで東高野街道を歩きます。
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