2022年8月5日金曜日

山根街道をあるく2 津田~菅原


  

 近くにいながら津田は良く知りません。国見山から降りてきて津田駅に向かうとか、その逆で山登りの途中で通過する。あるいは駅前の狭い道を通り過ぎる。なんともごちゃごちゃの新旧住宅のある場所というのが印象です。春日の元環濠集落は歩いたことがありますが、大きな旧家があるかと思えば小さな住宅が混在したところでした。最近は津田サイエンスパークや山手の住宅開発でさらにごちゃごちゃが進んでいて、急に都市化したような感があります。

 しかし、つぶさに見て行くとなかなかレガシィなものがあります。

 
 昔、津田氏というのがいて、これから津田の地名がついたのかどうか分かりませんが、その津田氏を調べていると、楠木正成の末流であり、延徳元年(1489年)に、初代城主・津田正信が、国見山に津田城を築城し、以来四代・100年にわたってこの地を治めた、とあります。三代目・正明の時代には、河内・飯盛山を拠点に近畿に勢力を持っていた三好長慶と同盟し、1万余石を領有。しかし、四代目・正時の時代に石山本願寺の合戦で、周辺村民とともに織田信長と戦い、城も村も焼かれてしまう。その後、信長の臣下となり二百石を領しますが、今度は山崎の合戦で明智光秀に味方し、結局、豊臣秀吉によって津田氏は滅ぼされてしまいます。

http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/tuda.htm

 負組も負組、散々な津田氏と津田ですが、その後、津田の村々はどうだったのでしょうか。例によって、米軍の1948年航空写真を見ていると、津田駅周辺は少し家が固まっているだけ。そこから北に延びる街道(山根街道)は途中で東に90度折れて山すそを通っています。街道は惣喜池の手前で2つに分かれ、北に山根街道、東は杉、尊延寺から山城国に入って田辺を経由して京都や奈良へ抜ける道となっていました。西は枚方経由で淀川を渡り摂津ですね。結構重要な交通の要衝です。


より大きな地図で 山根街道 を表示

1.津田をあるく

■いきなり影見池をパス
 惟喬親王がしばしば交野ノ原へ遊猟をされた時、見失った愛鷹が池に写った姿を見て発見されたという伝説から「影見池」と名づけられていますが、扱いがあまりに貧相なのでパス。家を建てるのもよいが、それなりの扱いをしたらどうかね。枚方市に入ったとたん、これですから先が思いやられる。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm

代わりに東に見える堤防を撮っておきます。あそこの堤防の道がおもしろそうで、今度行ってみます。住宅街の道を抜けていきますと・・・ 


 




■見えてきました地蔵池の石仏群
 池下の大きな楠の下に沢山の地蔵さんがお祀りされています。電柱はあいかわらず邪魔ですが、これは壮観です。
 地蔵池は明治16年の大旱魃の時に津田の人々が、家伝来の系図を質入してまで私財を集めて大改修をしたため池で、付近から石地蔵が沢山見付かったのでこの名前が付いたといいます。
http://www.shoai.ne.jp/hirakata/douro/051018/051018.html

どこかに、片腕を差し出した「早来迎」地蔵さんがいらっしゃるそうですが、前掛けをしてはるので分かりません。地蔵さんから衆生に手を差し伸べられた姿と言われています。http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm

地元の方と思いますが、きちんと手入れをしてくださって、休憩所までありました。 

なかなかすばらしい。津田の一級の文化財だと思う。最初見たときは、工事現場みたいなバラック屋根はなんとかならんかと思っていましたが、これはこれで美しいのだ、と思うようになりました。
 









 すばらしいのですが、地元の方や、枚方市がきちんとした情報発信をしていないようです。少なくともWEBでは・・・・探すのに疲れてしまいました。お世話してくださる人まかせで、一般の人は無関心なのではなかろうね、と心配になります。もっというと、好き嫌いがあるのは仕方がないとして、家を建てるのに邪魔だから壊してしまえというようになるんじゃなかろうか、と。そこまで行かなくても、いかにも邪魔そうに扱う、そんな光景はよく目にします。

 なけなしの金をはたいて池を修復し、埋もれていたお地蔵様を拾い集めて祀ったというスピリットを理解すべきかと思う。それがレガシィ。

 
地蔵池。奥のほうは公園になっています。それは後日・・・






休憩後、堤防をあるいて行きます。この道がまた格別。







■津田元町

 そのまままっすぐ行くと津田元町です。古い地図や、米軍の航空写真をみると、このあたりが津田の中心です。かなりの高台。津田駅周辺や、下の道を走る車から見るとここに古い街があるとは思えません。最近の新しい住宅地かと思っていた。

 道は細く、こんなとこ通っていいんかいなと思うほどです。よそ様の庭先を通るような道ですが・・・通りました。










 楽しそうな小道。散歩には最適かと。四季折々いろんな姿を見せてくれるんでしょうね。

なかなかすごい道です。なにがすごいかというと、この先、お寺が見えますが、そこに行く道の細いこと。路地以下!いいですねえ。 

 尊光寺。浄土真宗本願寺派の寺院で長禄年間(1457~1460)の開基だそうです。この辺りの高台にはお寺が4軒集まっていて、拝観するのもよし、路地を歩き回るのもよし。ボクは路地派ですが、こんどゆっくり行ってみましょう。


 
















石垣。この背面の角が良かったのですが、写真が逆光でパーでした。

 さらに高台へ。蔵もいいね。このあと、個人のお宅の庭に出そうになったので引き返しましたが、後で地図をみると道だったのか? 


■山根街道と合流

 高台から降りてきて山根街道との合流点、津田事務所の前に道標があります。


右ひらかた 左のざき大坂道 

・・・・法音

天保十二年   ○○兵衛 

  飛び出し坊や(ストップ坊や)の看板で隠れています。指す方向が違いますが、西南角、右の写真を撮っている位置にあったものと思われます。西から(左)入って来たのは田辺街道、まっすぐが山根街道(田辺街道合流)です。




 

 

 


■春日神社

 津田の産土神を祀るとされています。春日という限りは祭神はアメノコヤネ命になったのでしょう。津田の近くの在所・春日と関係があるのかないのか?藤原氏の地盤になったのでしょうか。ズラーっと灯篭が並んでいて、拝殿に導かれます。










 

 

 

 

 

横に回ると、大きな楠。拝殿、本殿に覆いかぶさっています。



 

 

拝殿はきらびやか! 

本殿です

左:若宮八幡宮、右:春日神社 

拝殿の中は神事を行う時のために椅子などが備えつけられていました。絵馬もたくさん飾られています。後部には大太鼓のやぐらが置いてありました。太鼓もあったのか?枚方つーしん:http://www.hira2.jp/archives/50286981.html を見ていると、秋の大祭は相当大掛かりでにぎやかです。一昔前の、村のお祭りの雰囲気が伝わってきます。まだまた現役で祭礼が行われているのだ。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

■街道を進む
 春日神社を後にします。この辺り、津田の中心だった雰囲気が伝わってきます。 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

■山根の道分岐
 枚方市が指定している「山根の道」の看板。山の根の道の枚方バージョンですね。次回に訪問。どんどん進んで行くと石灯籠があります。 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

■さらに巨大な石灯籠
 さすがに巡礼の道です。写真には写っていませんが、左手に分岐があって、山根街道、まっすぐが田辺街道。


 

 


 


二月堂の灯篭でした。ここからだと、田辺街道でしょうか。穂谷越えかも知れない。いずれにせよ大和へはいくつも道があります。 

 

 ■津田の村は終わります
 国道307に出会いました。ここのコンビニで休憩します。山根街道はコンビニの横をまっすぐ北です。
 津田を歩いてみて「津田元町侮りがたし」というのが率直な感想ですが、惜しむらくは、地元の方々の情報発信が少ない、枚方市も、ちょっと有名どころの観光情報の発信はあるが、在地の文化についての掘り起こし気概があまり感じられないということです。せっかくリソースはあるのに惜しいことです。金になる住宅開発にしか興味がないのか?早晩、家の建てられそうなところは全部家になりそうな気がします。 



 



 

 


2.藤阪は淡々と

 なぜ淡々と?情報がないからです。WEB検索してみてください。不動産情報ばっかりですから。とりあえず、歩きます。

 ■この道はいいですねえ
 左手は枚方津田高校。中に津田トッパナ遺跡があるようですが・・・http://www2.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/bunkazai/serch/bunkazai/pre01.htm?tuNo=59









■山根街道のエンブレム

 振り向いています。川は穂谷川、後方は国見山。


■藤阪駅前を通ります
 信号を渡ってまっすぐ。正面の森は、藤阪菅原神社と旧田中家鋳物民俗資料館。この資料館はお勧めです。



 







藤阪菅原神社と旧田中家鋳物民俗資料館の森。王仁公園はその向こうです。ここで線路をくぐります。写真はくぐったあとの振り返り写真です(逆光でね)。 













  ■藤阪菅原神社
 線路の向こうに隔離された状態です。地下道をくぐっていきますが、その気が萎えてしまいます。森の向こうからもいけるはずです。参道の石段のくぼみ。自然にできたものでしょうか。 








 

 

 

■大きな石灯籠
 秋葉灯篭でした。秋葉灯篭は防火を願い、浜松は春野町にある秋葉神社にお参りする秋葉信仰で作られたもので、人々は講を作って、交替で秋葉神社にお参りをしたときの道順を示し、安全も兼ねて作られました。東海地方には多いですが、関西でもたまに見ます。東海地方のものは木製の祠で囲ったものが多いですが、こちらのは石のみ。なぜここにあるのかが良く分かりません。調べようとしても情報なし。
 

 ここで不思議発見。64bitのWindows7なのでWXG4が動かず、しかたなしにMicrosoft IMEを使っていますが、いしどうろうで石灯籠、とうろうで灯篭 と変換されます。とうろう の意味が違うのか?何でですかね?

道標が横にありますが、

「北 八わた一り半 京五り 宇治二り半」
「西 ひら方五十丁 高つき二り半」
「南 のざき三り 大坂六り 高野二十り」
「東 なら五り 施主・・・」

と書いてあるそうです。http://myippo.com/kaidou/yamane/yamane1.htm

藤坂街道との辻ということですが、ここから右(東)に行く道があったのか?片町線(旧名は忘れました、関西鉄道?)の開通で壊されたか、もしくはもうひとつ先の辻ではないのか? 


■ちょっと道草

 藤坂の旧村ですが、あまりうろうろはしませんでした。
昔、一世風靡?したエドモンズ大学日本校ですが、なんでこんな狭い路地にプレートを張るんでしょうね?それほどバブルだったのだ。



 







 ちょっと街道に戻るのが早すぎました。クルマは多いので、ここは走るしかありません。


■菅原です
 もう長尾の手前ですが、ここから街道は車道を外れますのでゆったり歩けます。以前はクルマでここを曲がって1号線に出たり長尾を通過して八幡まで行ったりしましたが、今はまったく通りません。旧街道も一度クルマで通って、あまりの狭さに難儀したことがあります。

 

3.ちょっと寄り道 田中家鋳物民俗資料館

 田中家鋳物民俗資料館に行ってきましたので(2010/9/16)載せておきます。

 田中家は、枚方上之町で鍋や釜の日用品、犂先などの農具、寺院の梵鐘などの鋳造を行い、北河内地域を独占的な営業圏としてきた、真継家配下の鋳物師です。昭和40年(1965)頃には廃業して、鋳物工場と、隣接する住宅(主屋)を枚方市に寄付しました。江戸時代中期に建築されたともので、昔の鋳物工場の姿を現在に残す、国内でただ一つの建物です。
 工場内には鋳造の歴史や製作の道具類と田中家の歴史を、住宅内には枚方の伝統的な生活用具を展示しています。
 また、敷地内には枚方市内で発掘された弥生時代の竪穴住居跡、復元竪穴住居もあわせて展示しています。

公式サイトより:http://www14.ocn.ne.jp/~hirabun/

  ■エントランス
 気持ちの良い場所です。街道歩きよりいいかも。右側の建物が鋳物工場(復元)、左が母屋です。 



 



 

 

 ■展示物
 典型的な鋳物の作り方が展示されています。鋳物の基礎を学習するにはよいとおもいます。今風の鋳物主力製品である、自動車部品の展示もある。鋳物と書くとレガシーですが、今の生活を支える、なくてはならない基礎技術です。これをレガシィというのでしょう。










 踏鞴のふいごです。SWオンで、わっさわっさと動くようになっています。当時はもちろん人力(足踏み)ですね。 

 甑(こしき)。溶解炉です。 むこうではこしき作業の復元展示もあります。 

■母屋と民俗展示
 きれいに整備されています。手入れされ過ぎで稼動時の泥臭さはないが、それはしかたのないことです。建物自体のデザインは美しい。

母屋



これは母屋から見た工場




かまど と 流し。必須中の必須 



 

 

 

 

 

 

 ちょっと前まで使っていた農機具の展示もある。昔、実際に使っていました(見たことがあるし、手伝いもした)。右は作業中などに赤ちゃんを入れておく子守フゴ。これは見たことがない。


 

 ■弥生時代の復元竪穴住居
     田口山遺跡で発掘されたものの屋根部分の復元です。非常に精巧にできていて、これを高床にして柱をつけたら今の(ちょっと前までの)田舎屋敷と変わらないのでは、と思うほどです。高床に技術は要りそうですが、わらぶき農家住宅の基礎は弥生時代にもうできていた! 

 
この屋根の外観をみると、弥生遺跡のものとは思えません! 

  ここはお勧めです。イモジ、農家民俗、弥生時代の学習にはもってこい。学習しなくても心休まるスポットになるでしょう。

     ボクはスバルユーザーではありませんが、レガシーでなく、レガシィの意義を知っていただきたい。 

(道草終り) 

 

 


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