2022年8月26日金曜日

陶邑をゆく

 百舌鳥野をあるく(2) 陶邑をゆく

2013年7月2日

 

 

 これから陶器に行こうと思いますが、さすがに百舌鳥野というのが適当なのかどうか?(2)として「陶邑をゆく」にしてみましたが、名前負けしそうなタイトルです。

 1.百舌鳥野とは名ばかり


■宅地拡大

 事前にGoogleMapを見て、田畑のありそうなところにルートを設定しています。が、行ってみると全然違う。地図では、土塔の大門池の南は畑が広がっていましたが、行ってみると道のキワは住宅で埋まっていました。高速を越えたあたりも真新しい住宅が建っています。まだ工事中のところもあって、住み始めたばかりのようです。
 歩いたルートが異様に東に出ぱっっているのは、途中の高速をくぐるトンネルが通行止めだったので。高速のキワはすっきりはしていますが、残土置き場、建設資材置き場がほとんどです。

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■買収待ち?

 高速沿いの農地は単なる荒地で買収待ちか?そこから路地を少し入ったところも、一応、畝は作ってありますが、何も植えている気配はない。周囲の様子をみていると、やる気もでないんやろうなあと思います。予定では田んぼのあぜ道を行くつもりでしたが、やめてしまいました。


 
■深井畑山町

 路地に入ると、かなり前に開発された街のようで、落ち着きが見られます。しかし、表通りにでるとミニ開発。新しい住宅がたち始めています。




■はすかい道

 この街道沿いは、元は昔ながらの農村のようで、なかなか古い家もあります。びっくりするくらいの大きな家もあった。
 この道もそうですが、地図をみていると南東-北西のはすかい道が目立ちます。そこに東西南北の道が交差している。多分この台地が南東に高く、北西に低いゆるい傾斜をしているんだと思います。自然の水流に沿って道ができているらしい。



■住宅開発の中にわずかに残る畑

 路地に入ってみます。多分近道になると思いますが、今日はスマホのGPSもちゃんと機能しているので道迷い大丈夫でしょう。
 めずらしく畑。でも何も作ってなさそう。住宅がそこまで来ています。狭い谷筋らしきところに畑が残っています。こんな感じで谷筋と丘が広がっていたんだ。



■東山

 ここも古い農村のようです。この東に池があってその利水で発展した農村かと。その御池の名は「おいど池」。「おいど」って、またなんでと思いましたが「御井戸」なんでしょう。調べて見ましたがよく分かりませんでした。行基が井戸を掘ったという伝承があるのもこのあたりだったと思います。または、土地の有力者が井戸を掘って、それが池に発展したとか、思いましたが。
 なにしろ、和泉の国ですから。




2.陶器千塚

■まもなく精華高校が見えてきました

 このあたりは陶器千塚古墳群があった(過去形!)ところです。東山、陶器北、辻之の標高50~60メートルの丘陵地帯に分布というので相当広い範囲です。現在ではそのほとんどが消滅しているので行ってもなにもない訳ですが、とりあえず、ここにあったんだという雰囲気だけでも味わうかと。
 写真は精華高校の北側と反対側の陶器川から見た精華高校です。川があって背面に丘がある、こんなところだったのかと。



 陶器を作る技術を持った大陸からの渡来人が、この辺りに住みついたのは五世紀中頃からといわれ、およそ500年間の長い間、陶器の製造にたずさわっていました。
 陶器の製造には、粘土層が良質であること、窯が作り易いこと、焼成に必要な薪材の入手が容易であることが必要です。また、製品を運ぶ手段(水利など)も必要です。この地は丘陵の斜面を利用して作る登り窯が作りやすい。薪は広がっている丘陵から無尽蔵と思えるほど取れたのでしょう。(8世紀になると枯渇してきますが)。どんな植生か分かりませんが、炭素分析の結果では、アカマツ・スギ・ヒノキ・イヌマキ等があったということです。

■陶器千塚古墳群

 陶器千塚古墳群は古墳時代後期(6世紀を中心)の古墳群です。明治時代に開墾によって相当数が破壊されましたが、それでも昭和20年代には小型の前方後円墳を含む35基が現存し、その大部分は円墳であったといいます。いまでは御坊山古墳(全長30m、前方後円墳、大阪府史跡)と半壊状態の小さな円墳が数基残るのみといいます。半壊でもいいから1つくらい残さんかいなと思いますが、住宅地になるんでしょうな。まったく惜しいことです。
 御坊山古墳は、この古墳群で唯一の前方後円墳でこの古墳群の中心となる古墳で、精華高校の中に残っています。
 写真は精華高校のテニスコート南とその南に広がる田んぼ。住宅が押し寄せていますな。

 

■須恵器生産に関わった人達の古墳

 御坊山古墳の南20mには陶器千塚29号墳がありました(過去形!)。直径10メートル前後の円墳で、今では精華学園のテニスコートになっています。
 発掘調査の結果、横穴式木芯粘土室(よこあなしきもくしんねんどしつ)という特異な埋葬施設をもつ古墳で、須恵器円筒棺1・杯身7・杯蓋4・提瓶1・器台1・はそう1・長頸壺1、その他銅芯銀張耳環1対・ガラス玉49・土玉1・鉄鏃1が出土しました。
 この横穴式木芯粘土室の分布は、東は埼玉、西は兵庫と全国で30数例が知られていますが、大阪府下が12例、この内、10例が堺市と和泉市の泉北丘陵を中心に存在します。
この古墳が須恵器焼成窯と同様な形態であることから国内有数の須恵器生産に関わった人達との密接な関連があるとされています。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/tokisenzuka.html


■火葬の始まり?カマド塚

 泉北丘陵の10例の横穴式木芯粘土室の内4例は、埋葬後粘土室に火をかけて、遺骸を焼いたとされています。(カマド塚)さらに、火葬にした骨をそのままに墳丘を築いたもので、6世紀末から7世紀初頭の時期のもののようです。
 日本における火葬は、文武天皇4年(西暦700年)に僧道昭を荼毘に付したのが始まりとされ(続日本紀)、弟子の行基もまた、師の教えを受けて、日本各地を歩き回る一方、民衆に火葬を進めたといわれています。大宝2年12月(703年1月)には、持統天皇が歴代の天皇として初めて火葬にされました。
 ただ、道昭以前にも古代の日本人は火葬されたようで、防人など行路の途に倒れた者、子どもの遺骸などは火葬されていたらしい。
http://blog.hix05.com/blog/2006/11/post_42.html

 陶器千塚は火葬が(正式な?)葬法として日本列島においてひときわ早く出現したところと言えるでしょう。
 写真は、古墳や火葬とはなんの関わりもありませんが、植生は違うにしてもこんな風景が広がる場所だったんでしょう。


3.古の陶器郷

より大きな地図で 百舌鳥野 を表示

 

 陶器川を東に遡って行きます。陶器(住居表示では、とうき)ですが、古の茅渟県陶邑(ちぬのあがた・すえむら)にふさわしい名前です。
 地図に よると陶器北しか載っていません。陶器南はないのか?調べると、もともと1889年(明治22年)陶器東村、陶器西村があって、1955年(昭和30 年)、泉北郡久世村、東陶器村、西陶器村、上神谷村と合併して、泉北郡泉ヶ丘町となる。それ以前、江戸時代には陶器藩というのがあったそうな。陶器城址 (陣屋跡)というのも残っています。
   東陶器村:福田村、北村[2]、上之村、見野山村、岩室村
   西陶器村:深坂村、田園村、辻之村、高蔵寺村
 合併に際し、旧村名が町名にしましたが、旧大鳥郡には「北村」が二つあったので、陶器北(1959年に改称)と八田北町になった。陶器という名前が消えるところでしたが、セーフ。


■土山三叉路

 陶器川が南北の街道に会うところは三叉路になっていました。橋のたもとに看板があってこの辺は「土山」となっています。
 南はいったん下がって少し登って辻之に至り、北側は二手に分かれて、1つはおいど池の方に、1つは福田のほうに向かっています、どちらも古い街道のようです。西には石垣の上に古いお屋敷が見えます。東の田んぼの向こうには中嶌邸のクロガネモチの巨木。
 ここはなんとも気持ちのよい場所で、昔ならばベンチかなにか置いて、清水も沸いていて恰好の休憩場所だったんやろなあ、というくらいの場所でした。

 

 もひとつ、北側に急坂の路地があってトベラが門柱のようになっているところがあります。こういう風景はボクのお気に入りでして、登ったり下ったり、人が見たらなにをしてるんやこの不審者、と思われそうなところでした。こういうところを毎日通る人は羨ましい。

 

 北側の枝道を入っていくと白壁の蔵があります。玉にキズは手前が更地になっていること。
せっかくの古の陶器郷もちょっと荒れかかっているか?

■さらに陶器川を遡って行きます

 蔵のある大きなお屋敷、先ほどの看板に○○家という案内はなかったですが、相当歴史のある家のようです。ウバメガシとカヤの巨木があるらしい。左手は何の巨木かと思ったら、これは楠でした。なかなかの散歩道です。




■野・原の行き着く先は住宅地か

 陶器川左岸堤防の道がなくなったので北の丘に上がってみます、。
 途中、土手の上に建つ家があって、その土手を利用して庭が作ってありました。なかなかかわいらしく、それでいて陶器の村里らしい植生になっていたので、かなり気に入りましたが、人様の家をバシバシ撮るのもはばかられたので写真はなし。今度また行ってみようと思います。それだけで見に行く価値はあると思ったほどの庭です。
 台地の上は田んぼが広がっていました。川床から10数メートルはあるか?台地はもと野で原になり、もっと上流で溜池をつくったことから畑になり田んぼになった。家は台地の斜面に作り、低湿地であった川の周辺も整備していまは立派な田んぼになっています。そのせっかくの台地もが、今は家がどんどん建ちつつあります。

■村の中に入っていくと

 古い家や新しい家が混在して、ちょっと安定感がないなあと。祠も立派にコンクリート製、周囲もすっかりコンクリートで固められていました、でも、祠が残るだけましか。


■三浦邸

 案内板では楠の巨木があるとのことでしたが、このお屋敷も由緒ありそうな風情です。詳細は分かりませんが、隣に駐車場とマンションというかアパートが建っていて、将来はこのような状態になるような気がします、

 

 

■陶器南遺跡をあるく

 陶器川川岸に来ています。左岸に道がありました。この辺は陶器南遺跡(の端)になります。
この遺跡は古墳時代から古代にかけての 日本最大の須恵器の生産地であった泉州(陶邑)窯跡群の北に隣接し、今までのの調査では、古墳時代からの須恵器生産に関連したる集落跡が見つかっています。また平安時代後期から中世の集落、居館跡が検出されています。
今は・・・更地が侵食しています。

■陶器が育んだ生活景

 登録有形文化財・兒山(こやま)家住宅。江戸時代後期に建てられた家です。兒山家家伝では中世にさかのぼる旧家で、家業の施薬に加え、江戸時代を通じ大庄屋として小出藩代官も勤めていました。この建物は、江戸時代後期に本家より分家し、通称「東兒山」と称されている住宅です。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/torokuseido/koyamakejutaku.html

 

 そんな公式的な説明より、住んでいらっしゃるご本人の手記のほうがインパクトがあります。
http://www.culture-h.jp/tohroku-osaka/bun11.html
 ここでは「ナヤ・ミュージアムをつくる会」が発足され、この住宅にある納屋を使って、昔の農具などを展示するミュージアムが、市民の手によっていろんなイベントも催されています。なんでも2001年に隣接する本家(桃山時代の床の間があった)が壊されマンションになったそうです。兒山家以上に古い本家が壊されたとは!愕然とされたはずです。
 ところが、近隣の主婦の方から「建物は所有者の物でも、これを構成する景観はみんなのものだから、この家を残して欲しい。私たちにも何かお手伝いできることはないですか?」と言われて、保存だけでなく活用を中心とした手作りの活動が始まっています。
「構成する景観はみんなのものなので、残す」陶器という土地が育んだ生活景を残すということで、とても重要な概念だと思います。応援したいと思いますが、家からはちと遠すぎる。もう少しじっくり見とけばよかった。

 ところが!こういうことをする輩がおる。これを見ていると、陶器もあと何年かたてば普通の街になってしまいそう。

■追い討ちをかけるように更地

 なんか痛々しいですね。この崖っとは昔ながらの丘陵地の端に作ったもののようで、ちゃんと手入れがされていて、植生を見たらいかにも昔通りのものが育っているようで好ましいのですが、その下が畑のようで畑でない、更地です。周囲をみると土地の持ち主も浮き足立ってるような気がします。
 我が交野も古い土地でありながら、あちこちで虫食いのように開発が行われていますが、それでも、こちらよりもおとなしいぞ。



■陶荒田神社へ向かう道すがら

 東と西を眺めていますが、ここも陶器南遺跡で発掘調査をしたところです。田んぼは広がってはいるものの住宅が迫ってきています。
 どこにでもある新興住宅地のように、その土地の歴史を分断してリセット更地にして家を建てるのでなく、古の陶器郷の価値を残して麗しの陶器郷として残してほしい、これが願いですが、どうも悲観的にならざるを得ません。



3.陶 荒田神社

 陶 荒田神社への道はまっすぐで、後から作った道のようですが、旧道の痕跡も地図から見て取れます。航空写真にはゆるやかに曲がる細い畔道が写っていて、これが旧道かと。その旧道が陶荒田神社に接続する場所にある祠。カシの樹とともに残されています。

■陶 荒田神社

 すえ あらた じんじゃ。陶と荒田の間に空白があります。陶_荒田。陶器郷の氏神かつ陶器の生産に携わる業者の守神とされています。茅渟県陶邑にふさわしい神社です。

 境内は広く明るい神社です。ちょっとガチャガチャしていた陶器郷とはうって変わって、静かで落ち着きがあり、ほっとしますね。ゆっくり休憩させていただきました。

ご祭神は、今は
 ・主祭神--高魂命(タカミムスヒ、造化三神の一・高御産霊命の別名)・劔根命、
 ・配祀神--八重事代主命・菅原道真
とされていますが、諸説あるんだそうです。
戸原さん:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/izumi-suearata-11.html


■由緒によれば

 創建年は崇神天皇の7年(西紀前90年)とされていますが、相当古いということでしょう。
日本書紀・崇神7年条によれば、「疫病流行・災害発生などで国内が乱れた。崇神天皇が夢に出てきた三輪の神・大物主神がいうように、茅渟県陶邑から大田田根子(オオタタネコ)を見出して、これを祭主としてオオモノヌシを祀ったら、疫病が収まり国内が鎮まった」(思い切り大意)ということなので、この時、オオタタネコが当地に祖神を祀った、ということなのでしょう。土地の人にしてみれば、「大田田根子さんを取られてどうすんねん?崇神さん」というので、「遠い親戚の荒田直がおるやないか」ということになり、高魂命五世の孫剣根命の末裔である「荒田直」が祖神の奉斎につとめるようになった、こんなことなんでしょう。その後、陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられた。

大田社

 時代的には5世紀ごろ茅渟県陶邑で須恵器生産が始まるので、書紀の物語や神社創建逸話はその頃の記憶を反映しているのでしょう。記紀の時代から200年以上も前の話なので、大昔にこんなことがあったらしいと、時代整合性に無理をしながら整理した物語をベースに由緒を考えたと思う。
 大田田根子命は末社・大田社に祀られていました。
  関連する命の系図を調べると、

  戸原さん:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/izumi-suearata-11.html
                                                                     大物主神

                                  |ーーオオタタネコ………鴨君(葛城の鴨)
                                         |ーーー活玉依姫 (イクタマヨリヒメ)
                                         |                       
高魂命-伊久魂命-天押立命-スエツミミ命-玉依彦命-ツルギネ命(葛城国造)

 ツルギネ命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)
        |…?…大和国神別の葛城忌寸(カツラギイミキ)
        |…?……和泉国神別(天神)荒田直

                                                   
※なお、武内宿禰・葛城襲津彦を祖とする葛城臣とは別系統
こんなことで、陶津耳命経由でオオタタネコと荒田直は間接的につながっていることになる。

  陶津耳命(スエツミミ)というのが、いかにも陶器関係の統率者を思わせますが、あまり情報がないのでよく分かりません。ボクとしては、スエツミミ がこの地で須恵器生産を始めたのだと思いたい。
 スエツミミ は、大阪の座摩(いかすり)神社の 境内に陶器神社というのがあって、祭神は大陶祇神(おおすえつちのかみ)という神名で祀られ、信濃町などの瀬戸物町筋に多くあった陶器商人が信仰しています。また、若狭の山の中にある須部神社では陶都耳命(すえつみみ、大陶祗神と同)が配祀されていて、陶器作の首長ということです。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9122

 神社は台地上にあるので境内からの見晴らしはいいです。振り向くと坂の上に神社。
鳥居は南を向いている。南はいったん下がって行って少し登り平坦地が続いています。遠くには泉ヶ丘のニュータウンが見えます。ということは、陶器山地区と高蔵寺地区に分布する須恵器窯を見渡す要の位置にあります。


■上之バス停

 登り坂の途中にあります。あれ、南海バスではないの?ふれあいバス廃止ということでした。週3回では乗る人もおらんやろ。おとなしく泉ヶ丘まで歩くことにしました。


■坂を上りきると台地が広がっていました。

 
 ビニールハウスの横でおじいさんがキューリを売っていた。1本20円。
 ぶらぶらと歩いていきますが、台地の南端はえらい急坂になっていました。その落差30mくらいでしょうか。まさに泉北丘陵です。

 泉ヶ丘の駅はいったん下がって、また登り直すようでした。やれやれ。

     茅渟県陶邑は台地の邑であることがよく分かりました。

ーーーつづくーーー


 

 

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