2013年6月27日
森 浩一さんの「日本の深層文化」という本を読んでいると、田とは異なる豊かさを提供してくれた「野」(や、粟、鹿、鯨など)を捉え直すと、ともすれば稲作文化中心に捉えていた日本の深層文化はあたらしい姿を見せてくれる、とあったので、野の代表例として載っていた、いまはニュータウンになっている泉北丘陵・百舌鳥野を歩いてみたいと思いました。
1.百舌鳥野と石津原
■百舌鳥野
大仙公園にあるカフェレストラン「もず野」。誰がつけたか知らないが由緒正しきネーミングです。
この地は昔からモズが多かったそうな。どうやら古代から、百舌鳥野とか石津原と呼ばれていたようです。百舌鳥野は上町台地の難波高津宮から約20km南の遊猟地で、日本書紀によると、仁徳大王が百舌鳥野に鷹狩りに来た記事の24年後、石津原に出かけて自分の陵墓を定めました。この時、野の中から鹿が走り出てきて役民の群に突っ込むと倒れて死んだという。調べてみると鹿の耳の中から百舌鳥が飛び去ったので、この地を「百舌鳥耳原」と呼ぶようになった、という説話があります。百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された地名起源説話と思われますが、ともかくも百舌鳥野。
石津原はここよりやや西の石津の津辺りに広がる台地で、海に近いほうを「原」、遠ざかると「野」と言ったようです。
■大仙陵古墳を望む
数個の小さな古墳を取り込んで大仙公園はできています。その間から大仙陵古墳を望む。前方部見えていますが、全体は到底見えません。単なる山としか思えない。
大仙陵古墳5世紀前半〜中盤に築造されています。
世界最大の陵墓で、堺市博物館には、クフ王のピラミッド、始皇帝の陵墓と比較したミニチュアや巨大な立体マップが展示してあります。ざっと比較すると内部の前方後円部のマウンドだけでも始皇帝陵墓の2倍以上、クフ王ピラミッドの5倍くらいはあるかという途方もないもの。これが海岸近くの段丘上にあったので、初めて見た人はそれはビックリしたでしょう。(詳細は堺市博物館で見てください)
大仙陵古墳は通常、仁徳天皇の陵墓「百舌鳥耳原中陵」とされていますが、考古学的には、南にある履中陵・百舌鳥陵山古墳のほうが造営が古いようで、そちらのほうが仁徳陵という見方が定説になりつつあるという。そしたら大仙陵古墳は誰のもの?
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/sei/mozukofungunmap/nintokutenno.html
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html#cmsNINHYA01
■市民の保存運動で破壊を免れた古墳
築造は5世紀後半。前方部右側から見ています。昭和30年(1955)当時、この古墳は民有地で、こともあろうに墳丘の土砂採り取りをして、その跡地を住宅にするとして、土建業者が工事のために橋を架け、樹木伐採を始めた。それを見た堺市内外の市民・研究者などが遺跡保存に立ち上がり、必死に保存運動を行なった。やがて全国規模に拡大し、ついに工事は中止されました。堺市は民有地を買収して保存することを決定、国の史跡にも指定され、かろうじて破壊を免れました。後円部から出土したかぶと埴輪が、堺市の文化財保護のシンボルマークになっているのは前述の通りです。
所有者は、「これは古墳で、ということは高貴な方のお墓で、ことによると天皇あるいは皇族の陵墓かもしれない」という発想はなかったのかね?古墳を削って家を建てようとするなど信じられない。そんな家を買う人がいると思ったのか?(また買うバカもおる)
百舌鳥古墳群にはかって100基を越える古墳が存在したといいます。今日、一部現存も含めて46基しか残っていません。半数以上は戦後の宅地開発や道路建設の犠牲となったことで、まことに荒っぽい時代でした。
■もう1つは、タヌキ
1999年ころからいるそうですが、まだいるのか?いたいた、タヌキ一家。5匹見えますが、14年経って代替わりでもしたか?写真を撮っていると皆こちらを向いています。餌はないでぇ・・・。
元気そうです。
墳丘は草ぼうぼう。クズみたいなので一面覆われています。水辺には大きな木が繁っていなす。
あの大きい樹は多分アカメガシワだと思いますが、巨木!1本の樹かどうか分からないが、こんな巨木見たことがありません。極相林みたいになっている。アカメガシワも成長するとこうなるんや!という見本のような樹です。
草ボウボウの墳丘 |
アカメガシワ |
■いたすけ古墳から履中陵古墳を望む
後円部右側(南側)から見ています。遠くに見えるのが履中天皇陵古墳です。これはミサンザイ古墳、石津ヶ丘古墳、百舌鳥陵山古墳とも言われていて、日本で3番目の大きさの巨大前方後円墳です。今は一重堀ですが、外側に幅10メートル程の2重目の周濠が見つかり、陪塚は10基以上あったそうな。上述のように、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)よりも古く5世紀前半に造られました。
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/sei/mozukofungunmap/richutenno.html
http://www.sakai-tcb.or.jp/spot/spot.php?id=160
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/haze.html
■御廟山古墳
入る路地を間違ったか、路地の奥には工事のブルーシートが張られていました。
この古墳は2008年、多分初めて、宮内庁と堺市の「同時調査」が行われました。それまで宮内庁は管轄の陵墓・古墳の発掘調査も許可してこなかった。出土した円筒埴輪の研究から、5世紀中ごろ(西暦425~450
年)、大仙陵古墳よりも若干古い時期に築かれていることが明らかになっています。墳丘長が 200
mという大きなもので、倭の五王の誰かに仕えていた側近の墓ではないかといわれています。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/database/gobyoyama.html
この古墳は明治時代以前は、東方にある百舌鳥八幡宮の奥の院すなわち応神天皇の御廟として崇敬を集めておりました。なので、御廟山。明治維新の後は応神天皇が最初に葬られた墓あるいは仁徳天皇のお妃を葬った墓の可能性があるということで百舌鳥陵墓参考地とされています。 これらにより付近の住民はこの古墳を聖域として立ち入らなかったなかったので自然のままの植生にまかされてきたといえます。
■高林家住宅
前をいくおじさんに釣られて道草します。ニサンザイ古墳の方向は分かっているので街ブラで行きます。駐車場の向こうに森が見えますが、はて御廟山古墳にしては近すぎるし。
何か由緒がありそうな屋敷がありました。江戸期の大庄屋高林家住宅は大阪府内で最も古い民家の1つで、現在の姿は寛政年間に完成したとのこと。屋根の形は「大和棟」といわれ、大阪府と奈良県北部にかつては数多く見られた特徴的な民家の姿です。が、現役で使用されているため屋敷内部は分かりません。先ほどの森はこの高林家所有の山林のようでした。
スマホのマップを見ながらルートを決めていますが、どうも現在地がうまく検出できない。地図でだいたいの見当はついていますが、いかんせん画面が小さく俯瞰ができないのが玉にキズ。あとで調べたら百舌鳥八幡宮が至近のところに来ていました。こんなに近くにあるとは知らなかった。
■土師ニサンザイ古墳
http://www.sakai-tcb.or.jp/spot/spot.php?id=122
土手の上に緑の丘が見えます。これがニサンザイ古墳です。前方部の濠の外には公園が作られています。後円部の濠外はお墓があるようですが、それ以外は住宅や事業所が迫っています。どうせなら(お墓は別にして)周囲は公園にしてもらいたいね。発掘調査で外濠があったのですが私有地になってしまって後のまつり。後円部は府道を隔てて大阪府大の敷地に隣接しているのでした。
全長約290m、百舌鳥古墳群では3番目全国8番目の前方後円墳というので立派なものです。なかなか美しい。5世紀後半から末の築造とされ、反正天皇の空陵や履中天皇の殯の場所の跡とする説があります。現在、宮内庁が陵墓参考地に指定して管理しています。
■土師郷
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/haze.html
ここは古代の土師郷です。土師遺跡はニサンザイ古墳の南西に位置し、東西約1km、南北約0.6km広さが確認されています。東の美濃川と西の盆田川に挟まれた地域が集落の中心部と考えられ、多数の竪穴住居や掘立柱建物などの遺構が確認されました。遺物は多量の須恵器や土師器が出土したほか、や鉄滓なども出土したという。
土師遺跡は5世紀の中頃に突如この地に出現し、6世紀の前半には消滅します。集落の消滅時期が百舌鳥古墳群の築造が終わる時期とほぼ同時期であることや、農耕集落とは異なった生産集落の特徴から、土師遺跡は百舌鳥古墳群の築造に関わった集落と考えられます。
さて、土師といえば土師氏。土師氏は埴輪制作集団であるとともに、古墳造営や大王の葬送儀礼に従事する集団でもありました。土師氏は、秋篠と菅原、古市に住んだ系統と、ここ百舌鳥古墳群に居住した土師氏があるらしい。
道明寺出土の「修羅」 |
河内の藤井寺にも土師ノ里という近鉄の駅があり、地名はないものの、土師の里遺跡というのがあります。ここも古市の土師氏が活躍したところです。遺跡の中心部で竪穴住居跡、周辺からたくさんの埴輪や滑石製のまつりの小道具(ナイフや鏡など)が見つかり、道明寺では「修羅」も見つかっています。このムラの住人が古墳造りに深くかかわっていたことをうかがわせます。埴輪を焼いた窯は硬質の須恵器を焼く窯をまねたもので、斜面に煙突を倒したような登り窯形式でした。ここで焼かれた埴輪は、誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)や市野山古墳(伝・允恭天皇陵)などに供給されていたらしい。
ちなみに、参照した藤井寺市のサイトはかなリ詳しく突っ込んで書いてあります。ふじいでら広報に載ったものですが、古代への関心をかきたててくれるなかなかの文章です。
http://www.city.fujiidera.lg.jp/9,0,98,153.html
前方後円墳は、初めから奈良県内だけで造られてきたのですが、4世紀末後半以降に出現した、河内(古市古墳群)と和泉(百舌鳥古墳群)の前方後円墳が同時平行的に造られるようになり、それがとてつもなく巨大であることから、大阪平野に拠点をもつ豪族が大和王権のトップの地位についたと解釈する河内王権の考え方の元となっています。
■配水場間違い
目印になる排水場にきました。ここまでの認識はよかったのですが、次に地図を確認した瞬間、小学校の角と間違えて左へとりました。いわゆるリングワンデリング状態、別名、狐に化かされたともいう。
また小学校がでてきたので訳が分からなくなりました。スマホではあいかわらず現在地情報がゲットできません。
子宝幼稚園という忘れがたい名前の幼稚園まで行って、あれ?さっき通った所だということで、復帰できました。
4.行基の郷
■家原寺
配水場を過ぎると下りになります。西の低地を流れる石津川と上野芝あたりを流れる百済川上流の美濃川に囲まれたところは台地になっていて、そこを通ってきたということが分かります。
公式サイトを見ても昭和に再建された塔というだけで、ちょっと愛想なし。行基が生まれた寺(場所)というので、もっと行基の話が載っているかと思ったら、文殊菩薩が本尊であることから合格祈願とかペット霊園とか。
http://www.家原寺.com/index.html
■行基生誕の地
行基は生年668年、749年2月23日に没(天智天皇7年 -
天平21年)ですが、行基37歳の時(慶雲元年)「もとの生家を掃き清めて仏閣となす」とあるように行基生誕の地です。ただし異説もあるようです。異説の一つかは分かりませんが、隣の高石市高師浜付近で生まれたと言う説もあり、そこには「行基生誕の地」の石碑が建てられているそうです(見てませんが)。
父の名は高志才智(さいち)。高志氏は百済の王仁の後裔西文(かわちのふみ)氏から別れた氏ということです。高志は古志とか越ともいわれ、実際、越の国にも高志氏がいて、行基は越後頸城郡の生まれという説もあります。
母は蜂田首虎身(はちだのおびととらみ;行基のおばあさんと森浩一さんの本には書いてある、おじいさんでしょ)の娘・古爾比売(こじひめ、こにひめ)と伝えられ、和泉国大鳥郡蜂田郷が本拠です(あとで訪れますが)。蜂田郷は石津川右岸の広い範囲ということで、その中に、蜂田首氏も高志氏も隣り合った場所に住んでいたということらしいですが、ボクとしては高志氏の居住地は高師の浜が気になっています。
■行基ばなし
詳しくは専門サイトを見てほしいですが、とりあえず一般論を書いておきます。
行基は十五才で出家して道昭について学び、後に薬師寺で修行に励みます。37歳になり、近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動しました。しかし、寺の外での活動が僧尼令に違反するとされ、民衆を煽動していると疑われたことで朝廷から弾圧を受けましたが、民衆の圧倒的な支持を得ている行基の影響力を無視し得なくなった朝廷は、聖武天皇により東大寺の大仏建立の勧進を任され、大僧正の位も贈られました。
これから家原大池を通って平岡から丘に登ったのはよいが、道に迷ってしまいました。
途中まではよかったんですが、右折が遅すぎて…
相変わらずスマホの現在地確認ができません。次回は家原大池から。
5.蜂田の郷をあるく
2013年7月2日
行基の郷リベンジです。今日はできれば陶器山まではいきたいが、暑いし……
■毛穴
「けな」です。鎌倉時代にこの一帯を統治していた毛穴一族に由来するという説とかいろいろですが、詮索してもしかたがないので。けっこう古いお家も残っています。道は狭くて逆にいい感じです。 どんどん坂を登っていきます。東側は石津川ですが、20mは上ったでしょうか。
家原寺奥の院という扱いですか。案内板によると「この寺は行基が13才の時、母方の蜂田連が氏寺として創建したので、蜂田寺とも呼ばれていました。行基が39才の時、母親供養のために華林寺(花林寺・蜂田寺)を再興したと言われています。」
行基が再興したのはいいけれど、「母方の蜂田連」はほんまかいな?
先に触れましたが、行基の母は蜂田首虎身の娘・古爾比売です。蜂田首氏は百済渡来系の氏族で、三国志の呉王孫権の後裔氏族とされています。 一方、蜂田連の祖は天児屋根命で、中臣連の祖神でもあり、占いや祭祀を司る神様なので、これを一緒にしたらあかんでしょう。いろいろサイトを見て回りましたが混同がやたら多いです。堺市の公式案内がこれですから全部これを参照しているのでしょう。
もし、蜂田首から蜂田連が分かれたの(あるいは逆)なら、きちんとその事実を書いてほしいのだが、そんな記述は見当たりませんでした。蜂田連は謎です。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-c-son.html
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03009.htm
■蜂田薬師 (くすし)
お寺自体は、改修も掃除もがきちんとされているようで清楚なたたずまいです、中はよく見えませんが、本尊は薬師如来坐像で、薬師三尊像、阿弥陀如来像・大日如来像・不動明王像・行基菩薩像・弘法大師像などが安置されているようです。小さいが気持ちのよいお寺です。
【孫氏系図】http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-c-son.html
によると、出展が分からないが、系図は呉太祖大帝、孫権 (182-252)を(3)代として
(13) 孫 薬師 渟久利が、渡來於倭國而帰化
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(14) 蜂田 薬師 末武
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(15) 蜂田 薬師 勝目
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(16) 蜂田 薬師首 味吹
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(17) 蜂田 薬師首 磐手 醫寺生
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(18) 蜂田 薬師首 虎身 醫博士 住於摂津國百済郡
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(19) 蜂田 薬師首 黒根
薬師首 稲毛 交干戈於寺白村江
高志赤猪室/女子・俗名;権智子売ーー行基
要は、虎身5代前の渟久利が帰化、子の末武から蜂田薬師(くすし)を称す。さらに、虎身2代前味吹から首が加わった。以後、薬師首という姓。森
浩一さんはここに蜂田薬師(はちだのくすし)が住んでいたと考えていますが、一応話はつながったと思います。蜂田連だったら全然つながらない。
しかし、孫 薬師首 虎身は「住於摂津國百済郡」と書いてあるぞ?
森
浩一さん(および和田
翠さん)は母方の氏族である蜂田薬師の力を借りて、あるいは活用して、病気の治癒を進めて行ったと同時に布教を進めて行ったと考えられるのです。そのキーは「ハチミツ」。古代、蜂蜜は薬でありました。現代でもそうですが。蜂田薬師は医者の家ではありますが、蜂を飼ってハチミツを採ったのではないか。
『令義解』には薬部についての規定が解説され、「姓を薬師と称するもの、すなわち蜂田薬師、奈良薬師の類なり」とあり、その世襲についても書かれている。ハチミツというおいしいモノを使って蜂田薬師に伝わるノウハウがあれば強力でしょう。こうして行基は民衆の支持を得ながら布教を進めて行った。
その昔、この台地上の野はどんな植生だったか知る由もないですが、ノイバラとかあったんではないか。潅木の花を狙って少しへんぴな蜂田の台地上に住居を構えたとか考えたくなります。
■蜂田ブルー
…というような色はないんですが、ちょっと気に入った色だったので勝手に名づけました。
センスはいいと思うぞ。
周囲は新しい住宅と古い住宅が混在しています。あたらしいほうが勝っていますが、まだそんなに違和感は感じません。落ち着いた街になっています。
■合祀社は
調べてみると、その合祀社として、式内社調査研究(1931)は、琴平神社(大物主命・住吉四神)・市杵島神社(イチキシマヒメ)・菅原神社(菅原道真)・家原〈六柱〉神社(カナヤマヒコ・イザナミ・高野大神・タカオカミ神・白山比咩命・百済王仁)・稲荷神社(ウカノミタマ)・八田神社(スクナヒコナ)・神明社(伊勢両宮皇大神)の7社を挙げるが、1社は不明。由緒略記には合祀祭神名の記載がなく、今、これらの諸神がどうなっているかは不明。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/izumi-hachida.html
一応、百済王仁が合祀されているのは見えます。蜂田薬師は神社はもたないのか?不明の1社なのか?
蜂田薬師と蜂田連がこんな近い所に、というか重なるようにして住んでいたかと疑問に思いましたが、蜂田連はもっと遠い所、八田荘(はったそう)とか八田(はった)に住んでいたのではないか?蜂田薬師は八田寺(はんだいじ)に住んでいた。こんなところでどうでしょうか?
明治政府も無茶なことをするし、合祀社を記載してなくて、今どうなっているか分からないというのもちょっと酷いのではないか。その合祀社である六柱神社。たしかによく分かりません。お稲荷さんは横にあるようです。
■鈴塚
この神社は元々当社を信奉していた蜂田連が、毎年節分の日に、土焼きの鈴12個を作り音色の良し悪しでその年の吉凶を占ったことにより鈴の宮と呼ばれるようになりました。神事に利用した土鈴は神官が木槌で割って鈴塚に奉納し、別に開運厄除の御守り鈴を参拝者に配られます。
■拝殿には先客
ヤンママと幼稚園児。長い時間お参りしています。土地の人の心の拠り所となっているのでしょう。ちょっと待って、お参りをしました。季節柄、七夕の飾りがしつらえてあります。自由に願い事を書いてね、となっているようです。
■もっこく
あまりによい香りがするので、何の花かとおもって写真を撮っていたら、後ろからおじいさんが話しかけてきました。
ここは藤がキレイなんや。5月には鎮守の森の池側にまとわりついとる。
亀もおるで。以前倒木が池の上に倒れかかっていて、そこに何匹も一列になって甲羅干しをしとった
池の向こう側は浜みたいになっていて、亀が産卵しに上がってこれた。
カワセミもいてる。橋の下あたりを、よう飛んどる。
昔、東京におって帰ってきた、なかなか自慢のところや
池の東側は近所のおばあさんの畑があって、子供の頃は樹が多く繁っとって恐いくらいやった
もっこく |
おばあさんの畑のあった場所 |
土地の人にはなかなか愛着のある鈴の宮公園のようです。
あのこんもりした森はなんですか?古墳みたいやけど?と質問すると、 「単なる竹やぶ。夏にはむちゃくちゃ生えて持ち主も困っとる。手間もかかるし手入れもでけん。ちょうどシーズンなんで、ゆうたら竹をくれるよ。 」
蜂田神社の七夕飾りはこちらの竹を使っているようでした。
いいね
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7. 八田から深井
細い道ですが抜け道幹線みたいなところで、車がよく通ります。
沿道には古いお家が残っています。路地に入るとまだまだ木のぬくもりが感じられます。
Google mapの航空写真を見ると、南側にはまだ田んぼ(畑)が写っていますが、道からはあまり感じられません。住宅か事務所に、お店ばかりです。
■野々宮神社
ご祭神は、素盞嗚命、火産霊命(ほむすびのみこと)、菅原道真公
。由緒書きによると、創建は不詳だが約400年前と言われる。和泉国大鳥郡深井荘野々宮香林寺の略縁起によると、天正年間に細川氏の兵火に遭い、春日社領であった奥山(現深井清水町)に転座し、再建されたとされる。
400年前というので比較的新しい。火を使って「野」を焼きながら開拓していったので、発火と鎮火の神様なのか?「火の宮」とも称されるようですが、字面からは「鈴の宮」のようなかわいらしさは感じられません。
ここの鎮守の森は常陵郷の森というそうです。常陵郷とは深井郷の古名で、常陵戸と呼ばれる墓を守る人々が住んでいた場所です。墓とは?この周囲にある仁徳、履中、反正の三大天皇陵です。彼らが古墳を守っていた。誠に由緒正しい土地です。
「火の宮」のせいではないですが、相当暑い。12:40過ぎでお腹も空いたので水賀池端でパンでもと思っていましたが、あまりに暑いので見つけた喫茶店で昼食です。カレーがまた熱い!1時間近くへたり込んでいました。
8. 土塔をひとまわり
堺市博物館で手に入れた「堺の誇り 土塔と行基」史跡土塔整備完成記念講演会記録集 平成22年 堺市編 を参考にしています。220円で最新の調査結果が分かる!おすすめです。
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■さて、土塔です
土塔は、行基が建立したとされる四十九院のひとつ大野寺の仏塔です。
土塔のある地名も土塔。土地の人は地名は「どうと」と言ってますが、塔はやはり「どとう」というのでしょう。上記講演では、「どうと」という言い方は、てっぺんにお堂のある仏塔「堂塔」からきたのではないか、という想いも表明されています(上記講演;白神典之さん)
戦後まもなく土塔は、個人の地主のものとなり、住宅の壁土として北東部の四分の一ぐらいが削られました。それを発見したのが藤澤一夫さん(大阪府教育委員会)で、昭和27年、「これはいかん」と知事に直談判して大阪府が買い上げることになり、1963(昭和38)年に史跡指定されました。堺市では、土塔とその周辺を公園として整備するため発掘調査を実施、その成果を元に復元工事が実施され、2009年(平成21年)に完成しました。
平成25年(西から) |
■ピラミッド!
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/tenjikai/doto/doto.html
http://osaka-rekkyo.main.jp/wp/wp-content/uploads/2012_08_24_sakai_report.pdf
発掘調査では、土塔は十三重の塔で、一辺は53.1m(180.00尺きっちり)高さ9.0メートル(27尺)でした。塔というよりピラミッドです。元来ストゥーパなので、五重塔みたいな木造建築の塔でなくてもよいのでしょう。
土塔は、一辺30cmの粘土ブロック(土のうのようなもの)を積み上げ、その内部に土を埋めて固めていきます。最初に、高さ120cm
の基壇を築きます。その上に12段の土壇を築いていきますが、各段の外周に、35cm×23cm×10cmぐらいの直方体の粘土ブロックを列のように並べて積み上げ、その中に土を入れていきました。十三重目(最上段)は、粘土ブロックの列が、相撲の土俵のように丸くなっていて、土塔の横にある模型のように最上段には、お堂が建てられていたようです。そばに復元模型も展示されています。
■庶民が参加した土塔工事
土塔のもっとも重要な特徴は、庶民が建設に参加したことです。行基の布教・社会事業のスタイルは、多くの信者や弟子、
協力者と「知識」と呼ばれた集団を形成してことに当たるものでした。土塔は下から土を積んでいきます。盛り土が完成したあと表面に瓦を葺いています。この
方法は、宮大工のような高度な建築技術は必要がないのが特徴で、きちんと寸法取りができればできます。土を積み上げる作業は音頭取りがおれば誰でも参加で
きますから。
土塔の発掘調査で見つかった約7万枚の瓦には、へら状の工具を用いて文字を記したものが1,200点以上あり、その95%は人名
でした。人名は僧侶名、尼僧名、優婆塞の名前、「矢田部連達麻呂」などの豪族、「刀自古」などの一般民衆といった様々な階層の名前があります。寄進した人
や行基にしたがって土塔づくりに参加した人々とされています。8割が僧尼以外の俗人のものでした。
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/tenjikai/doto/mojigawara.html
■土師氏の役割
しかし大がかりな建築では行基+素人「知識」集団では無理があり、総合プロデューサは行基が務めるにしても、設計とか測量とか工事段取りとかやはり建設のプロの力が必要だと思います。土塔から200mぐらい離れたところで、瓦を焼いた窯あとが発見されています。陶器技術者やそれを抱える氏族も加わっていた。
一番主導的な役割を果たしたのが地元の豪族土師氏だと言われています。しかし単に土建屋として参加したのでなく、行基の教えに帰依して一信者として参加し、本来の職掌である天皇家の古墳造営や葬送儀礼者としてのマインドで周囲にある天皇陵に葬られている歴代天皇の鎮魂も込めて土塔の建設を行ったのではないか。土塔からは願文を刻んだ須恵器のかけらが見つかり、歴代天皇霊をなぐさめるものと推定できる文の断片が見つかっています。
1年に1回しか公開されていませんが、土塔の頂上に登れるそうです。登ってみた吉川さんの話では小高い丘の上に建っている土塔のてっぺんでは周囲の古墳が一望の元に見渡せるのだとか。基本設計を行った行基+土師氏はおそらくそのことに気づいていて、今は亡き天皇の鎮魂も意図していたのではないかと考えられています。(上記講演:吉川真司さん)
■行基弾圧下で着手
平安時代の「行基年譜」には神亀4年(727年)の起工とあり、遺跡からも神亀4(727)年と刻まれた瓦も見つかっています。この時、行基60才。まだ朝廷から弾圧を受けている最中です。
行基は順風満帆は布教活動を行ったわけでもなく、寺の外での活動が僧尼令に違反するとされ、民衆を煽動していると疑われたことで朝廷から弾圧を受けました。弾圧の始まりは717年。天皇から名指しで「小僧行基めらが邪説で民衆を惑わしている、活動禁止を村里に布告せい」字の表現はともかくこんな感じの詔勅です。さらに722年、「学問もできていないやつらが因果応報を説いて人々を騙している、特に禁断すべし」(おもいきり意訳)。50代の油の乗り切った僧侶をつかまえてよくも言ってくれたものだと思います。朝廷にしてみれば、仏教は国家護持のためにあり、僧は寺院の中で修行をすべきだ。僧尼を管理下に置いているのに、勝手に民衆に布教するとはもってのほか、という観念なのでしょう。
弾圧が緩められたのは731年(天平三)。「行基法師にしたがっている優婆塞らは、一定以上の年齢なら入道を許す」(おもいきり意訳)小僧から法師に大躍進です。
■行基復権と土塔建立
この間に何があったか?
行基は大和で活動ができなくなって故郷の和泉大鳥郡に帰らざるを得なかった。この経緯は行基の寺院などの建立・建設が大和から一転して和泉、河内、摂津などに偏ってくることから分かるそうです(上記講演:吉川真司さん)。
722年以後、大野寺、土塔の建立も含めて、精力的に、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など数々の社会事業を行いました。
天平2年からは摂津での工事が多くなります。これは何か?
ここからボクの妄想ですが・・・・・・土塔の建立で「行基がまだ何か変なことをやっとる」と疑った聖武天皇にだれかが言ったに違いない。「いや、行基は国を安泰にするためにやってるんですよ。土塔では歴代天皇の霊を鎮魂する仕掛けも作ってある。それを民衆が喜んで進めているのです。また、池を掘ったり橋を掛けたり、布施屋を作ったり、あなたのやれていないことをやっているのです(こんな偉そうな言葉使いはないでしょうが)」
これを聞いた聖武天皇は、ちょうどそのころ行っていた難波宮造営関係に行基を呼んでみた、そんなことがあったのではないでしょうか?だとしたら、聖武天皇も相当度量の広い天皇だと思います。聖武天皇も、「一枝の草、一把の土をもって大仏造立を手伝おうとする者があれば、それを許せ」と言われたくらいなので、ひょっとしたら行基のやり方を聞いていて学ばれたか?そうだとすると相当スゴイ。
その後、朝廷は河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用しましたし、741年(天平13年)には聖武天皇が会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用しました。勧進の効果は大きく、745年(天平17年)に朝廷より「大僧正」の位を最初に贈られました。
大仏造営中の749年(天平21年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で没。
ちゃんと手入れされて公園になっています。湿地もきちんと残っている。トンボも縄張り争いをしています。池越しに土塔を見るのもよし。
名前が分かりません。気になる花です。
近くまで住宅が迫ってきています。まさか蚊が出るので池を埋めよというんじゃないやろね?
9. 行基で中締め
ちょっと締まりのない構成になってしまったので、百舌鳥野は行基で締めておきます。
行基に関する事績の年表を作ってみました。新たにではなく、既存のもの4種を合体させたものです。ざっと眺めていると・・・布教の締めくくりとして大野寺・土塔を作ったのではなくて、ここから本格的に四十九院と言われる布教所や各種の土木工事、布施屋を作り始めたのでした。それも還暦60を過ぎてから。
天平2年からは、物狂いでもしたように、院やその他の工事などを着手しています。「社会事業をたくさんやりました。はい、立派な人です」で終わらせる訳には行かない。
なぜ「社会事業」をやり始めたか?もちろん、若いときの指導者・道昭の影響はあるでしょう。しかし世の中の動きをきっちりみていて動き始めたのではないか。
大宝律令が制定され、安定した世になると思ったら、庶民の生活はどうもそうではないらしい。租税はきっちり取られるし、おまけに平城遷都で労役がきびしい、これでは庶民は食えない。道理で私の元に、僧になりたいとよってくる者が多い。仏教立国はよいにしても、寺の中で朝廷のために祈るというのはちょっと違うのでは。政治は安定しているとはいえF氏ばかりが権力をもったのでは?そのやり方は庶民とかけ離れておる。
「そんならワシが手本を見せてやる」という意識があったのではないか(ボクのまとめストーリーです)
養老年間に入り、布教禁圧は喰らったが、右大臣もまともな人になったようだ。神亀になって、聖武天皇はどうも真面目な人らしい。社会不安を自分の責任と考えて悩んでおられるようだ。あの方なら自分のやっていることを分かってくださるに違いない。アンチF党もまだ健在なようだし、お寺を建てるだけでなく民の役に立つことをやろう。それが仏教本来の仕事だ。それには池を作って、川を改修し、布施屋もたくさんつくろう。荒れた百舌鳥野を田畑に変えよう。
こういうプロセスを通って、740年、聖武天皇、河内の知識寺を訪問。741年、聖武天皇、泉橋院に行幸、行基と会見。難波宮造営の協力、大仏建立の勧進、行基大僧正 という結果につながっていったのではないか。
仏教の理屈ではなく、身をもって民を助けた実践活動によって聖武天皇に「仏の道はこうですよ」と影響を与えたとすれば、すごい人間であったと改めて思います。百舌鳥野が育んだ偉人というべきか。
(とりあえず終り)
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