2016年4月ごろから交野病院に通院していて、運動のため帰りは歩いて帰ることにしています。市の健康診断で引っかかった(というより、2月頃から自分でもどう
もオカシカッタ)ので、通院した日は、経過観察として市の健康相談に市役所にも寄っています。その時間調整に私部をブラブラする訳です。
私部は山根街道歩きで主立ったところは歩きましたが、久しぶりの私部ウォークです。
■私部は「きさべ」(あるいは、きさいべ、きさいちべ)、と読める人は多くないでしょう。しかし、私部も私市も、なんとボクの生まれ故郷の綾部にあるのです。福知山市との境界で、福知山市にも私市がある。その私市は昔は(古代は)私部だったのです。私部は皇后のために置かれた部で『日本書紀』の敏達天皇六年(五七七)に「詔して日祀部 私部を置く」とあります。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/amata/kisaibeg.html
「丹波國何鹿郡私部(きさいへ)は皇后(きさき)部の義、敏達天皇六年紀、置二私部一を釈紀にキサイベと訓んでゐる」
その他、丹後国熊野郡私部郷、但馬国城崎郡城崎郷私部里などもあるようですが、確認はできていません。その私部も大化の改新で廃止になります。
そういう訳で、私市や私部は結構親近感はあります。

綾部市と福知山市の「私市」 地理院地図400×240pic左が福知山市私市、右が綾部市私市町
参考までに、「今昔マップ」の私部該当部分をリンクしておきます。
■時代は大いに下って私部城
戦国時代、私部城の安見右近が登場します。私部にはお城があった。まあ、城館くらいのものでしょうが、織田政権の大坂支配にとっては重要な拠点だったこと
が明らかになっています。すなわち、織田以前の私部では有力な禅宗寺院であった光通寺が全盛期にあり、織田支配下となった安見右近により光通寺が破壊さ れ、その地域に私部城が築かれます。
北河内地域は、元々、三好氏配下の山城が多く、織田信長は大坂進出にあたって、敵対していた三好好三人衆の 勢力に対して、平野部の寺内や拠点的城郭をその配下におき、大坂の掌握を実現していった。そのひとつが安見右近の私部城だったのです。考えてみると、私部
の位置は京/大坂の中間東高野街道が通り、山根街道が貫いている。ここから生駒の西に行けば大坂、河内、生駒の東に行けば大和。地図を眺めていれば津田と 同様戦略上の拠点となるのがよく分かります。
私部城について、詳しくは、
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/kisabe02/kisabejyomito.htm
■今の私部は・・・何もありません
何もありませんが、静かで豊かな住環境はある。路地もある。大型ショッピングセンターが近くの寝屋川にでき、さらに交野病院が移転して、私部周辺は人通り が少なくなっています。しかし寂れているかといえばそうではないと思う。まあ、こういうのを寂れるという人もいますがね。ボクはそうは思わない。少しづつ 建て替えで虫食いのように今風の家も建っていますが、昔ながらの静かな街並が現役で残っています。建築士の腕の見せ所かと思います。地元の人は住んで吉、 われわれネイティブでないものは歩いて吉。よい街だと思います。
それでは私部へ、いざ。写真をクリックすれば該当アルバムへ飛びます。
0 件のコメント:
コメントを投稿