町石道は2回と1/3を歩いた。中途半端な1/3とは2010年11月22日、朝から大雨で慈尊院で雨宿りをしたあげく気分が乗らないまま決行し、二ッ鳥居で意気消沈して、古峠からエスケープしたものである。あとは、登りと下り1回づつ。ただし下りは秋のつるべ落としの時間切れで、百町石より下 は飛ばしに飛ばしたのと、樹林帯のなかは真っ暗でほとんど写真にならず。
町石道第3クールは、矢立60町石〜高野山壇上伽藍だ。2回目のデータと3回め下りのデータで構成する。
参考記録
1回目:2010年11月22日
慈尊院(8:30)-144町一里石(10:38)−古峠(11:41)-二ッ鳥居(11:53)
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http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-206.html
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慈尊院(7:32)-一里石(8:52)−古峠(9:37)−二ッ鳥居(9:43)-神田・二里石(10:08)−笠木峠(10:40)-三里石(11:11)−矢立(11:34)-四里石(12:58)−大門(14:00)−壇上伽藍(14:20)
3回目:2014年11月21日
壇上伽藍(10:34)-大門(10:46)−矢立(13:41)-笠木峠(14:54)-神田(15:48)−二ッ鳥居(16:03)−一里石(16:34)-慈尊院(17:32)
4回目:2016年7月22日
9:40 金剛峯寺-9:51壇上伽藍-10:14大門-12:38矢立-13:35笠木峠-
14:17神田-14:39二ッ鳥居14:58-15:42一里石-17:13慈尊院-17:55九度山
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
■町石が町石道の左右どちらにあるのかを写真の下に記入した。振り返り写真も多数あるので、大門の方向を基準に右左を示している。
■矢立でもうちょっとゆっくり 60〜59町石
2回目、2011/5/4は、矢立でちょうど11:30だったので昼飯としました。九度山を朝に発って、ここでちょうどお昼になるので絶好の休み場です。
矢立とは?武士の弓矢を入れるカゴとか、今風にいうなら筆ペンのように、筆と墨壺のセットというのが本来の意味だそうですが、ここの矢立はどちらから?ちょっと調べてみはしましたが、どうも矢立茶屋の餅と矢立砂捏地蔵くらいしか情報がありませんでした。
茶屋の屋根越しに見えるは「矢立砂捏地蔵の祠」。弘法大師が村の平和と村人の健康を祈願して作った地蔵だという。 六地蔵でなく6+1になっているのは何か理由が?
■いよいよ登り 58〜60町石
■町石ではない石もある 袈裟掛石、押上石 55〜53町石
このあたりから、登りは一段落したようで、ゆったりと登っていきます。
■袈裟掛石
弘法大師が袈裟を掛けた伝説から名付けられたとあります。弘法大師が座った石というのも他地方にあった気がする。しかし一番多い伝説は水を湧かせた、井戸を作ったというものではないですか。村人に助けられた場合は水が出てきたとか、逆に村人に邪険に扱われた場合には、温泉がただの水になったり、鉄気のある水になったり、結構報復も恐ろしい。
袈裟掛石は2つに別れていて、石と石の間をくぐり抜けると長生きするという言い伝えがあるそうで、「くぐり石」とも呼ばれています。
袈裟掛石 ここはくぐれんなあ!
わかやま観光情報によると「高野山は明治時代まで女人禁制でした。弘法大師の母君、阿刀氏はある日、禁を破って五十四町石あたりまで登山してきました。ここより先は入れませんよと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。そこで大師は石に袈裟をかけ「ここを越えられますか」と告げます。言葉どおり母が飛び越えようとすると突如雷鳴がとどろき、火の雨が降ってきました。驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、その影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手形が残っているといわれており、ここからが高野山の清浄結界とされるゆえんです。」
https://www.wakayama-kanko.or.jp/kataribe/01/detail_02.html
■淡々と巻き道をゆく 52~45町石
このあたりからはゆるい坂を淡々と登っていきます。相変わらずの町石ですが、ちょっと単調といえば単調か。花でもほしいところですが、5月のゴールデンウィークは端境期なのか、目立った花を見た記憶がありません。
■変化あり過ぎてウロウロ 40~36町石
41町石を過ぎると国道を横切ります。そこそこクルマ通りはあるので要注意。要注意はもう一つあって、町石が分かりにくい!
37町石は展望台から降りてきて、国道を横切った向こう側にありました。38町石だと思ったら、37で、38町石は国道を少し矢立て側に戻った左(南)側に建っていました。国道が町石道かい!この辺り町石の流れがギクシャクしています。
どうも、国道を作った都合で、町石道を分断し、遊歩道も別に作ったもんだから、巡礼道としての流れがおかしくなったのだと思う。高野山の生活に必要な道だとはいえ、もうちょっと頭を使ってもよかったのでは?クルマの合理性しか考えていないということですね。
改めて38町石38町石
町石道は再度国道から離れていきます。クルマの喧騒が軽くなるのはヨシ。
36町石も国道から離れてすぐ左、結構上の方だったので、行ったり来たりしました。
■これで登れるのか?と思う程の水平道 35~28町石
すぐに四里石ですが、斜面の結構上のほうにありますので、2~3回行ったり来たりしました。ここから先、傾斜のゆるやかな道です。これで本当に登るのかと思うほどの水平道でした。見晴らしのよいポイントもあり、歩いて楽しい道です。
■平坦だが変化も出てきた町石道 27~13町石
鏡石を過ぎ、27町石から13町石辺りまでも、平坦は平坦な道ですが、沢沿いの道になったり、木橋で谷を横切ったり、ちょっとした下りもあってびっくりしたり、また平坦になったり、見晴らしがあったりで、変化を楽しめる道です。静の中に動ありと言っておきましょう。
鏡石は、表面が鏡のように平らなので鏡石。この石の角に座って真言を唱えると願いが成就するという。
■最後の登りで大門へ 12~8町石
大門は高野山が開かれた当時は坂を少しくだったところに鳥居があったそうですが、宝永2年(1705)に再建されたといいます。あえぎながら最後の急坂を登り切ったところに、いきなり目に入るように立地しているところがニクイ設計だと思う。だれでも、オォッと思うでしょう。
2011/5/4の登りでは、最後の登りでへばりました。上がりきったところでしばしボォ-ッとして写真も撮りませんでした。201411/21には写真を撮り直しましたが、8町石付近は工事中で、またしても撮影できず!こうなりゃ意地でも撮ってやる。
■最後の直線ラストスパート壇上伽藍へ 7~1町石
■壇上伽藍
終着は壇上伽藍です。
弘法大師が真っ先に整備へ着手した場所で、高野山の核にあたる場所。「胎蔵曼荼羅」の世界を表しているといわれています。ボクにはまだ語る力量もないので本家のサイトをどうぞ。
http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#daito
その壇上伽藍の中でも真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立された大塔が根本大塔。多宝塔様式としては日本最初のものと言われますが、そんなことよりも人々を引きつけるのはあくまでも鮮やかな朱でしょう。
中門
愛染堂前から東塔を望む。見てしまいましたね。あらたな町石。壇上伽藍から奥の院弘法大師御廟までの参道には金剛界三十六尊の諸仏を表す36基の町石が建てられています。
今回はそこまでカバー仕切れません。多分何度もくると思うのでそのときチャレンジしましょう。
最後に、金剛峯寺にお参りしておきましょう。
2016年7月22日、3回と1/3でようやく町石が全部撮影できました。それだけのことですが・・・もちろん、写真がボケたり、イマイチのものがあるのでそれは別途撮影するとして、一応の区切りです。しかし、町石撮影の呪縛から逃れて、これからが本当の町石道あるきだと思うようになっています。ゆっくり楽しみながらお参りしたいと思います。
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