2013年9月23日
2009年7月11日
ほか春夏秋冬
森-私市-星田-打上と歩いて行きます。
津田からは東に山を見て、北から南に山麓を歩いてきましたが、森を過ぎると山麓の道はだんだん東から西に進むようになり、天野川を渡ると一層顕著になってきます。すなわち山脈は東西に横たわり、水は南から流れてくる。
大雨で水害や山からの土砂災害があったこと、谷からの土砂堆積で水田に適した土地ばかりではなかったことは共通ですね。
森の灯篭の辻 |
しかし、違いもあるのではないか?
倉治、神宮寺、寺の人々(私部の人も)は交野山や竜王山を毎日見て暮らし、心の拠り所も交野山の観音岩だったり、源氏の滝だったり、機物神社だったりします。
一方、森以西の人々は、目だった山はなく、交野山のほうがよく見えますが、心の拠り所は尺治谷であったり、獅子窟寺、磐船神社、妙見山であったりします。星田では、「八丁三所」に七曜の星が降り、影向石として祭る信仰が根強くあります。
こういう差が人々のマインドや行動に影響したかも分かりません。そんな芯の違いみたいなものがどこかにあるのではないかと思いつつ歩いてみます。ま、歩いただけで分かるようなものではないと思いますが・・・
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9.森の古道をあるく
古来、この地は「無垢根(むくね)」村と呼ばれていました。山麓に椋の大木があったからでしょう。それが森に変わった。なぜか?
10世紀には、交野地方には石清水八幡宮の荘園があり、津田山から交野山、竜王山、星田の山々まで入った広大なものでした。そのほか、山年貢を収納する倉庫、荘園の管理人の住宅地などが6町歩、荘園内の農民を使って耕作する田(佃、つくだ)が23町歩もあったらしい。延久年間(1069~1074)の管理人・森宮内少輔は有徳の人で、無垢根村の荒れ果てた「警固観音」を私財を投じて再興したことから、「森の村」と呼ぶようになったという。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti/index.htm
しかし、やっぱり。無垢根村のほうがええなあ。
■造り酒屋の道
須弥寺を過ぎると、新道から山手の方に分かれる道があります。そこを入っていきます。大門酒造の作業場がありましたが、住宅地に変わりました。突き当りを右に曲がると大門酒造。交野には、良質な水と米があることから、多数の造り酒屋がありましたが、現在、ここ大門酒造と私部の山野酒造の2軒だけになりました。
酒半・大門酒造は、文政九年、(1826年)創業ですが、それ以前から操業していた同村の冶左衛門の酒造稼を譲り受けたそうなので、もっと以前から酒造は続いていたのでしょう。
■北城戸の灯篭
大門酒造の先の路地を入って行くと、灯篭の辻。春日灯篭と、ハ幡宮灯篭。かたわらには、大和に出稼ぎに行った夫を待ち続けたお種さんが、夫が帰るのを待ちきれず石になったのではないかといわれるようになった蛙石(かえるいし)があります。
ここは北城戸という地名で、山麓沿いを走る街道の出入り口に木戸を設けて、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取り締まったところという。
少し行くとあぜ道になりますが、最近、せっかくの土手がコンクリート護岸になってしまいました(あぜ道を出たところでの振り返り写真です)。昨年の豪雨被害の影響と思います。ここはため池の裏手で、天田神社の裏参道につながります。
あぜ道を通らない場合には、北城戸の灯篭の辻を西にとり、ため池(森新池)の土手の下を通ります。
磐船村役場跡の辻。跡地にJAがあります。道路わきに倉庫か何か残っていましたが、駐車場になってしまった。自動精米機が置かれています。磐船村は、森、寺、私市が村域で、主として竜王山から磐船神社周辺の山地と、そのふもとの村を中心にしていました。
天田の宮ですね。私市・森の古くからの氏神ですが、天野川一帯には地味肥えた豊かな田野が広がり、甘田とか甘野と呼ばれていて、そこに田の神を祀った「甘田の宮」が当社の起源で、ニギハヤヒを祀ったという。宮廷人貴族の和歌や七夕伝説にちなんで「天田」、「天野」となるにつれ、当社社名も「天田神社」と替えられ、祭神・ニギハヤヒも当時流行していた住吉四神に替わったという。流行でとはいうものの、私市というように、皇后豊御食炊屋姫に献じた土地柄なので、いくらなんでも祭神がニギハヤヒでは困ったのでなはいかと。
天田神社は獅子窟寺の北の谷から流れ来る川の扇状地にあり、川はこの付近から小久保川となるようです。天田神社から西のラインが、天野川沿岸の条里制の一条になっていました。写真の鳥居から出ている道の辺り、それより北は住宅が目立ちますが。この谷と天田神社が特に重要だったことが分かります。
交野条里制、その一条については、
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti01/index.htm
交野線河内森駅をくぐる、ひとつ北の道(佃通りというようです)の脇には石仏があると聞いていたので行ってみました。・・・・家が建っていました。多分、その家の手前の段差になっているところ、フェンスに隠れていると思われます。未確認です。
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11.小久保川の堤防道
北城戸の灯篭の辻をまっすぐ西、京阪河内森駅から小久保川の堤防道をさらにまっすぐ下ってきます。
小久保川は治水のされていない大昔は大雨の度に氾濫していたと思われます。地図を見ていると、天田神社付近を頭に小さいながらも扇状地形が見て取れます。その後、どんどん土砂が堆積し、土手も作られるようになると天井川になる。今も天田神社付近より下流は確かに天井川になっています。落差は4~5m、もっとあるかも?何か人為的に河道を北に寄せた感じもしますがどうなんでしょう?多分、森の灌漑のためかと。
ここのしだれ桜は結構早く開花します。
堤防道の北側に、岩清水八幡宮荘園墾田の遺跡碑。分かりにくいところにあり、さらに正面がこちら、道路側です。
■堤防道と磐船街道との辻にある六角道標
詳しくは;http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti01/index.htm
灯篭の辻から磐船街道街道を南に少しくだったところ。ここからまっすぐ磐船街道を南下すると、四辻に至ります。「10.私市 交野条里制一条通をあるく」の四辻と同じところです。
■最強の大阪府道
上の写真の左(西)にはいると、星田への近道。磐船街道を行かずに、この道を行ってもいいでしょう。道は最強の大阪府道145号線です。この府道あるきは楽しいです。最強です。(西端の国道168あたりから撮っています)
■磐船街道四辻
磐船街道を南下していきますと「10.私市 交野条里制一条通をあるく」の四辻に至ります。ここをボンネットバスが通ったというのには驚きます。
12.星田を通り抜ける
星田の奥山は花崗岩質で風化が激しく、もろい土壌になっています。したがって土砂の流出で扇状地性地形が発達し、水田となりにくかったし、洪水も多かった。
傍示川、中川、妙見川などは天井川になっていて、大雨が降れば氾濫する危険な川であった。中川堤から東、天野川にかけては水田が開かれたが、西は畑作地帯と原野で、奈良時代あたりから鎌倉時代初めには原野に牛馬が放牧され、星田牧と呼ばれていました。、
さらに、星田の山は燃料や建築資材用に盛んに伐採され、戦後まもなくまで禿山でした。
ボクは星田の山と谷はほとんど歩きましたが、300mに満たない低山でありながら、谷が深いです。どの谷も大なり小なり滝があるし、岩場がむき出しで、巨岩がゴロゴロ、ちょっとしたゴルジュやガレ場になった谷もあります。なすび石の谷など、昨年の集中豪雨で崩落しましたし、妙見川上流の古いコンクリ橋も流されました。山は緑になったとはいえ、崩落地質は変わっていません。
「八丁三所」に星が降ったという伝説から、星信仰が星田の名の起こりということもありますが、星田はやっぱり干田です。
妙見川は地図をみていると、山から下ってきた妙見川は、妙見さんの西辺り大雨のたびに河道をたびたび変え、神宮山と今の妙見口の間でで氾濫原を作ったのではないか。そんなことを思わせる地形になっています。妙見川は異常に東の山すそにおいやられているし、星田会館のある妙音池ー中川通りの西辺りが一番低い。昔、妙見川をできるだけ東の山際に必死になって寄せるような努力をしてきたのかと想像します。
■妙見口の地蔵さん
妙見口のところには、昭和40年(1965)までは天井川の下がトンネルになっていました。ボクは見ていませんが、1961年の空中写真を見ると、妙見川の川筋の木々の下を道路がくぐっているのがはっきり見えます。その時、堤防上にあった石仏をこちらに集めたのが、妙見口に地蔵さんです。今日は黄色の前掛けでした。
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■星田の村中を歩きます
道は、村の東端(メインの中川通りのひとつ東の筋)です。小さな谷を登り、登ったところで、小さな尾根を横切って梶ヶ坂の登りに入るイメージです。小さな尾根の高みに星田神社が鎮座しています。
星田神社のお正月 |
星田神社の節分豆まき |
季節はずれではなんなので、最近の写真 |
祭礼は10月17日、だんじり2基出ます |
上の道を登ってくると突き当たりはカーブ。実際は三叉路になっています。
村の東端の筋から中川通りに向かう道。振り返り写真ですが、右の家は解体されて、今は、真新しい小さな家になっています。
上の道から続いている旧道です。(振り返り写真)クルマの走っている道は中川通り
妙音池の半ば上に建つ星田会館。毎年、春場所には春日野部屋が稽古場を構えます。近くには、勢関ゆかりのすし屋さんもあります。
■梶ヶ坂
■傍示川をわたる
梶ヶ坂を下ると、少し広い道にでます。この道をまっすぐ行くと、星田を通り抜け、旧臨港製鉄の横の道を通り、逢合橋の西詰に出ますので、これも古い街道かと思います。今回は西に向かいますが、やがて五辻にでます。このあたり、久しぶりに行くと見慣れない家が建ち並んでいて、迷いそうになります。
傍示川を渡りますが、少し上流に行くと春は桜。若木ですが、よく手入れされていて、そのうち妙見河原の桜も追い越されそうな気がします。
春でなくても、四季折々、よい散歩道です。
13.妙見道標を見に行く
星田山手や南星台から府道20号に向かうアクセス道路を渡りますが、今までの道の流れから見ると、この畦道(左写真)が旧道らしいと思われますが、通ってくれるなと書いてある。いや、性格には「盗るな」です。とうもろこしや茄子をとる輩がいるんだそうです。それもカッターナイフできれいに盗っていく。とんでもない確信犯ですね。ボクも百姓の倅なのでよく分かる。あまり通らないようにしましょう。代わりにもう少し下にある、灌漑水路の道(右写真)を通る。
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南からみると、大坂道 と彫ってある。
すぐ とか、右 とか 左 が消えているんでしょうか?方向がよく分かりません。
ここから西のあぜ道沿いに旧道があったと思いますが消えています。南の水路沿いには道がありますが、昔からの道で池に行く道なので、そちらには行くな という意味で建てられたのだと理解します。
大坂道は、まもなく東高野街道に当たりますが、ここからさらに川沿いに西に六日って寝屋川に至ったのではないかと思っています。
■東高野街道にワープ?
妙見道標のところで道が消えていますし。すぐ下に農道があるのは分かっているのですが、酷いブッシュで、降りる気がしません。とりあえずワープして東高野街道に行きます。ワープの代替道は後ほど探索します。
東高野街道と農道の交わる辻です。この先が東高野街道。少し行って鉄パイプをくぐると道が消えています。東高野街道は全線歩きましたが、ここが地道で残っている唯一のところだったと思います。洞が峠のところも地道でしたが、あそこは道そのものが破壊されているので、旧街道がかつてここを通っていた、としか表現できません。
東高野街道と農道の辻から、東高野街道を南に70~80mのところに祀られています。ここは消えた山根街道と東高野街道の合流点でもあります。
ここから東に、写真の左に入っていく道があり、それが山の根の道(遺構)です。
14. 治右衛門広の谷で道を探索
さて、妙見道道標の分岐からどうやって大谷南大師祠にたどり着くのか?
このあたりは治右衛門広と言われています。写真は東高野街道の消失点付近から東(ほろ山)の妙見道標のあるあたりから広がる治右衛門広を見ています、ここは、ほろ山の尾根の延長で周囲より少し高い台地、治右衛門さんが開拓した農地なのか?
■通ってはいけない降り道
妙見道標から西の道は消えています。畦を行くこともでき、その先にはいかにも降り道というような場所に出ますが、「ここは通るな」と書いてある。
このあたりから南西に旧道があって、大師祠につながっていたと思われます。
■水路道を行く
谷の南側に行ってもあぜ道があるだけです。右の山手の方に道があるかどうから未確認です。なお、この地点から左に少し大きめの畦道か農道か分からない道があって、そこを北に行けば、妙見道道標のある地点のすぐ下の農道にいたりました。
15.打上で打ち上げ
あとは東高野街道を南下して、打上に入って西に曲がり、府道20号に交わる手前の細い道を左(東南)に少し入ると弘法井戸があります。この地方には弘法大師にちなむ像や事蹟が数多くあります。
■打上の道標
JR東寝屋川駅近くの打上の四辻に道標が立っています。安政4年(1857)の造立とのこと。
南 かうや のさき 大坂みち
東 なら いせ ミチ
北 京 八はた 柳谷 星田妙見
東 なら いせミチ とは、ここから、石の宝殿ー岡山ー逢坂越で大和に向かう街道もありました。逢坂まではトレースしましたが、谷周辺は戦後、特に万博のころの乱開発で地形が変わるほどの大荒れでした。
写真が古すぎる(2005年10月9日)ので、取り直しの旅をする必要に迫られています。
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