2013年9月19日
2013年9月29日
交野古文化研究会のレポートによると、この山麓地方は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が、北から
はただ(津田、清水谷の口)-がらと川
はたもの(倉治より山寄り)-免除川
はたやま(寺)-南川
と3つ連なり、山麓扇状地の上に繁栄していた、とされています。
これらの集落の附近には横穴式古墳群が築造され、
はただ集落では清水谷古墳
はたもの集落では関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群
はたやま集落では竜王山古墳群
いずれも、7世紀の築造と推定されています。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm
そういう地域をあるいて行きます。
より大きな地図で
山根街道 を表示
5.倉治の山麓道
このコブはおもしろそうです、跡地を何に利用するのか不明ですが・・・
■清水谷あれこれ
山側に行くとすぐに第2京阪をくぐります。清水谷の方に登って行くと、清水谷古墳や論場というのがあるそうですが、パス。
論場については、清水谷の水争いが原因とのことですが、下記サイトを参照ください。以前、清水谷を登ったときに、通ったので写真は載せて起きます。この近くかと思います。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm
清水谷といえば、デ・レーケ指導のダム(石積み)が見つかったんだそうです。枚方市の、つだ・すがわら生涯学習センターだより23号(2011年3月1日)「ぶらり つだ界隈」には、ダムは土砂に埋もれて、草むらに隠れて、2m四方くらいしか見えない、と書かれています。ボクは確認できていませんが、冬になったら見に行きたいとおもいます。
■関西電力枚方変電所
倉治なのに枚方変電所とはこれ如何に?それはともかく、はたもの集落の横穴式古墳群のあったところです。またもや、http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm を参照ください。変電所の見取り図に遺跡の位置が示されています。敷地の上段にあったというので、写真の上の段の向こうの方か。古墳ではないかという丸山もあったらしい。1948年の米軍の航空写真では、当時はまだ変電所はありませんが、それらしい場所に、森のような黒い塊が写っています。
山麓の道については、1948年の米軍航空写真を見る限り、変電所の山側は(当時変電所はありませんが)区画は切ってあるものの田んぼではなく、黒い部分が点々とあり、残りは白っぽいので、畑か樹は植わっているのか?その間を農道のような細い線が途切れ途切れに見えるだけです。
■旧交野中学校
免除川をわたると左手に住宅地がありますが、ここが、昔、交野中学校があった場所だそうです。その下は倉治公園でグランドやテニスコートがあります。昭和22年(1947)に、当時の北河内郡交野町および星田村に学校組合というのができて、組合立として開校されました。1955年4月1日には 交野町・星田村の合併により、交野町立中学校となります。昭和36年(1961)、現在の第一中学校の位置移転しています。
免除川を渡る。錆びてるが使えるのか?
6.源氏の滝で道草
せっかくなので源氏の滝に寄ってみます。交野八景では「源氏の滝の清涼」ですね。
たくさんの宗教施設が集まっています。生駒の西麓もそうでしたが、よく分からない、神様か仏様かもわからない、神々が谷筋や尾根筋に集まり、メジャーな神社仏閣は里にでんと構えるという構造です。
本宮はどこかと検索してみると、泉尾!
対面は「親孝行の神様」
http://www.takamagahara.or.jp/access.html
■夜泣石伝説
夜泣石といえば、小夜の中山ですが、夜泣石伝説は類型があって、コトバンクによると・・・
(1)村境の石を移動したところ夜泣きをするようになったので,元に戻すと夜泣きがやんだ(聖石移動が夜泣きの要因)
(2)女人が死後村境の石と化し夜泣きをするので,旅の宗教家が供養をすると夜泣きがやんだ。境の神に手向けをする宗教家が,この伝説の生成・伝播に深くかかわっていた。
(3)妊婦の死後,埋めた石の下から毎夜赤子の泣声が聞こえたので夜泣石の名がついた。
ここの伝説はちょっとタイプが違いますね。あだ討ちしたが、実は親子同士だったというのはよくある話ですが、同じ話は今ちょっと思い出せない。中世の説経節にでもあったんでしょうか。
この話があるため、ここが心霊スポットになっているんだそうです。
女山賊がすんだという大和と河内の境、大蛇山というのが気になっています。どこか?
■倒れたお地蔵様
ここを紹介したサイトをみると、ちゃんと正立していて前掛けもかけておられる様子ですが、倒れています。ちょうど、東屋で休憩していたおじさんが「ハタチ前のヤツがこかすのでかなわんのや」といっておられました。
■交野山山頂部にある三宝荒神さんの遥拝所です
ハンデキャップの方々の施設は昔からあるのだ。
三宝荒神は日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像だそうです。インド仏教をベースにしながらも日本の神、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立し発展してきた。こういうのをガラパゴスというのでしょう。尊像を別途しらべると、不動明王ににていらっしゃいます。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多く、それだけなじみ深いです。
■源氏の滝
先日の台風18号の豪雨でフェンスがひしゃげてしまいました。フェンスに落ち葉や土砂が詰まったものと思われますが、水の逃げ道はいくらもあるのに、水の威力はすざまじいものがあります。
源氏姫が身投げしたという 落差18mの滝。18mもあるのかと思います。
奈良時代に創建されたという開元寺というのがこの滝の近くにありました。そこで元寺の滝という名前になり、源平の源氏にあやかり(源氏ブランド?)「源氏の滝」になったのでしょうか。開元寺は鎌倉時代に交野山の山頂付近に移りましたが、延暦寺の僧兵をかくまったということで、織田方の兵により焼き討ちされてしまいました。
ここは修験道の行場になっています。修験者は、磐船神社、獅子窟寺、金剛寺(竜王山の東台地にあったらしい)、交野山開元寺の4ヶ所を往復しながら修行を積み、満願を果たして悟りの境地に入れたら、下山して源氏の滝で身を清めたという。
このルートは、磐船神社-月の輪の滝間にきさいちカントリーがあるので、通しでは歩いていませんが、ほとんどは歩いています。今ではよいハイキングコースだと思います。それでも何往復する気は起こりませんね。そこをやるのが修行というものでしょう。
そもそも、生駒、葛城連峰は、役行者の修行の場でした。この修行場を宿といい、修験者はこの宿を渡り歩いて修行に励んだ。生駒山系である宿は、南は信貴山から北は石清水八幡宮まで、南から。青谷寺、信貴山、往生院、下津村、髪切、生駒、鬼取寺、田原、石船、師子石寺屋、金剛寺、甲の尾、高峯、波多寺、田寺、八幡の十六宿です。田原(四条畷市田原)、石船(磐船神社)、師子石寺屋(獅子窟寺)、金剛寺(傍示の金剛寺)、甲の尾(交野山)、高峯(津田城跡付近)、波多寺(尊延寺)が河内ですね。
この地は谷あり山あり、滝あり岩ありでいかにも修行の場です。源氏の滝の滝つぼ(つぼはないので落下地点)の傍らの岩には梵字が彫られていて、不動明王を意味するのだとか。不動明王の像もあります。
ここにもお不動様
■八大竜王社
不動堂の前、台地の滝側には八大竜王を祀っている社もありました。しかし、この石造が元来のものでしょう。
仏教では、釈迦が悟りを開く時に守護したので、仏教に竜王として取り入れられも、仏法の守護神となったという。古代インドではナーガという半身半蛇の形であったが、中国や経て今の竜の形になっています。日本では、古来から雨乞いの神様として祀られていますね。こちらでも神様風でした。
7.神宮寺の裏道をゆく
倉治公園のテニスコート脇から住宅街にはいります。街というほどのことはなく、すぐに田舎道になります。これが旧道で、山の根の道の名残といわれています。
■ヒガンバナ咲く神宮寺の古道
ここまで舗装してあり、この先、ちょっとの区間が地道になります。古くからある道のようです。
ヒガンバナまたヒガンバナ。ハイシーズンです。遠くに見える住宅の手前の山すそには開元寺(奈良時代)があった跡といわれています。
辻のお地蔵さんで、賽の神といわれています。ここから北は新しい住宅でよいのかな?
8.寺は 元 てるは村だった
弥生の昔、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいました。植物の葉っぱが陽光に照る感じなのでしょうか。
古墳時代になると大陸から渡来人が新しい文化を持ってやってきました。交野(交野ヶ原ね)には、津田山(津田)、交野山(倉治)、竜王山(寺)の三カ所に別れて、機織の技術を持った人々が住むようになりました。竜王山のふもとは「はたやま村」と呼ばれるようになりました。その機物は高級品で、当然ながらこの村の支配者(豪族)は相当の力を持ったでしょう。寺の周辺には多数の古墳が存在します。
しかし、竜王山一帯は風化した花こう岩地帯で、大雨でもあれば、崖崩れ、氾濫、土石流が起こり、「はたやま村」も、その下の「いまい」にいた「てるは村」の村々も土砂に埋まり、生活ができなくなった。
「てるは」の人々は尾根筋を中心とした場所に移り住み、農耕は北川、南川に挟まれた低地へ出向いていった。こういうことが原因で、元の「はたやま村」ではなく、農耕を主にした「てるは村」になった。その「てるは」が時代がさがるにつれ、いつのまにか「てら」となってしまった。
「交野の地名」より:http://www.cwk.zaq.ne.jp/fkfzb100/yumesite/timei/tera1.htm
たしかに、寺集落の上流、ダムより上にいくとガレ場がそのまま滝になったような場所があります。土砂崩れも頻繁に起こっている。住居の形跡はありましたが、沢筋に近いところは危なくて住めない。今でこそ沢の周辺に家も建っていますが、神社をはじめお寺や旧家は尾根筋の延長の高台にあります。
そんなところを歩いてみます。
■その前に道草
今の寺村の外れ、自動販売機が集積されているところで一服します。池があったようで、窪地になっている。学校帰りや仕事途中のひとが寄って一服しています。
一服した後、北川流域の西の低地の方に行ってみます。
ここのお地蔵様はいつもきれいなお花が供えてある。
こちらは遠く星田の山々
かなり下ってきました。このあたりまで新「てるは」の人々は出張って来たのか。
北川(その支流か?)に沿って戻ります。通学路になっているようで、時々自転車で疾走していきます、下りやからね。
■重文・山添家と竜王山
現役で住まわれているので非公開です。宝永2年(1705)の建築とのこと。詳しくは、http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti/index.htm
■灯篭の辻
「愛宕山」「二月堂」「柳谷」と刻まれたおおきな3基の灯篭があります。昔、それぞれの講があって、順番に代表を決めてお参りしたものと思います。講中の人は毎日、お灯明をともしにきたか。昔はボクのイナカでも、主におばあさん連中が当番を決めてやっていました。ボクも一緒に行くか、代わりにともしに行ったこともある。マッチを触れるのが楽しみで。
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