タイトルには迷いましたが、「南山根街道」としておきます。
山根街道は、古い記録により、おおまかに3通りあり(1)、枚方市がその一部分を「山根の道」と言ったり、地元の歴史に詳しい方が「山の根の道」といったり、「山根街道」でくくったりしています。ボクは交野古文化同好会の呼びかた(1)と枚方市の呼びかた(2)とに準拠して、先日歩いたところです。
(1) http://murata35.chicappa.jp/hosinomati/katanokodo/yamanekaido.htm
(2) http://www.shoai.ne.jp/hirakata/douro/051018/051018.html なぜか枚方市のサイトではない(言いだしっぺに詳しい情報がないとは?)
今回歩いたのも山根街道としてよいのですが、(1)によると、「私市から星田の村中をとおり、駅の南から西へ寝屋に通ずる道を「南山根街道」と呼んだ」と記述されているので、それに従います。歩いたのは、森の東端(大門酒造への分岐と行った方が分かりやすい)-私市(千手寺庵付近)-府道154(私市・大松付近-西川原)-藤が尾-府道154(星田・妙見口-六路の辻)-星田駅前-寝屋 なのです。従って、府道154も含むので、私市部分は山根街道とちょっと違うかもしれません。しかし、実用面から考えると、寝屋川、京街道付近からは星田経由で東高野街道や山根街道に接続したり、磐船街道や傍示越えで大和や山城へいく道だったのではないかと思います。幹線ではないが幹線に接続するそれなりに重要な道だったかと。あ、それから、妙見山への巡礼道としてはとても重要だったと思われます。
より大きな地図で
星田 を表示
1.森の道草
■籾摺り風景
お昼休憩中で運転は止まっています。モミガラの排出を家の庭にすると大変です。子供のころはよく手伝いました。稲刈り-運搬ー稲木に架けて天日乾しー稲こき-袋詰め(かます)-籾摺りー俵詰めが標準工程です。自前で俵詰めにしていましたが、いつのまにか袋詰めになった。途中で雨でも降ろうものなら予定がガタガタになります。台風がきたら最悪。
反当、3石後半だったらよいでき、4石もいけば上々です。等級は3段階で、一等が○の中に・(点)、二等が○に・・、三等が△に点三つ、∴。一等はなかなか難しかった。
江戸時代の米の消費量は(足軽で)、一人当たり平均で約2俵(1石)と言われています。一家(6人)が、一年間に主食として必要とした米
の量は12表(6石)。3食すれば8石くらいか?ちょっと上クラスの加賀藩足軽(庭付一戸建てが与えられていた)の年収は30俵15石くらいらしいです。
http://tetuyaake.blog83.fc2.com/blog-entry-149.html
子供の頃は20~25石の収量だったので、食える程度ではあるが、米だけ食っているわけには行かないのでね、兼業でないとカツカツでした。ま、足軽に毛の生えた程度のものですね。それでも当家はまだマシでした。
面積が少ない小農の場合は今でも変わらないのではないか。機械化して夫婦2名で耕作しても2町が限度といっていたので、70石。これでは米だけではきついでしょう。
2.私市界隈散歩
廃千手寺の横にある愛宕灯篭と亀山上皇行在所跡の石碑が建っています。ここは愛宕山の伏拝みの場所だったらしい。千手寺は、亀山上皇が病気の時、獅子窟寺の薬師仏に祈願され、ここを安在所として千手観音をまつって寺とされたもの。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti01/index.htm

■橋を渡ると藤が尾です
写真が全くないというのもなんなので、季節はずれながら公園の写真を・・・以前はショッピングセンターもあり、お店も多かったですが、ほとんどなくなりました。活気はなくなった代わりに静寂が戻ってきました。
3.星田の府道154をあるく
より大きな地図で 星田 を表示
このお屋敷の向うの路地、いや路地になっていない犬走りを入ると・・・
■神祖営址之碑
慶長20年(1615)、大坂夏の陣に臨んで二条城を出発した徳川家康は星田を宿営地に選んで平井家に一泊しました。それに先だつ二条城での軍議で、因幡矢橋城主市橋長勝は事前に大坂方の動きを予想して星田での警固強化を献策したため、大坂方の事前の焼打ちを免れ、無事に宿営、出陣できたという。
その後、市橋長勝の8代孫である市橋長昭が大阪城代になって(寛政年間)、星田を訪れた時にこのいわれを知り、祖先・長勝を顕彰するため文化3年(1806)に建てたものです。
解説文と碑文の訳が詳しく書かれています。
ここ入れます
細い道は続きます。ここは実は変則四つ辻になっています。見えているまっすぐな道でなく真中を行きます。
B:分岐 |
■六路の辻から星田駅前
あと一回右に曲って、あとは道なりにいくと府道20号との交差点にでます。六路の辻で、六叉路になっています。右手に入るのは府道157号。なお、googlemapの標記は154となっていますが、これは間違い。府道154はここで府道20号に合流し、大谷橋の交差点で西に分かれて、再び154号単独になり、寝屋に向かうのが正解。
C:信号 |
正面からは写してはいませんが、パチンコ屋があります。市条例での150mルールを無視して府条例の100mルールを優先したもの。ボクはどうかと思う。市の担当者が悔しがっていました。開店後見に行きましたが、景品交換所の土台が10センチほどナナメに切って立っていた!?こんな設計は初めて見ました。「ルールの隙を突いた者が賞賛されるような日本にならないと、これからの国際社会は乗り切れない」と言った人がいましたが、その通りやったんですかね?今回みましたが、前に自動販売機が据えつけてあった!どう考えても賞賛はできません。
星田駅前。右手の路地が東高野街道!
4.もう一つの山根街道
■寝屋長者の伝説地
詳しくは、寝屋川市のサイトで。
http://www.city.neyagawa.osaka.jp/index/soshiki/siminkatudou/t-hachikaduki01.html
http://www.city.neyagawa.osaka.jp/index/soshiki/bunka/namaedesagasou/097neyachouja-yashikiato.html
はちかづきちゃん、売り出し中で大忙し!昔から石造りのキャラクタがありましたが、ゆるキャラの方がいいですね。
弘安の頃(13世紀末)、河内の国、交野郡寝屋村に、寝屋備中守藤原実高と申す大長者があった。田畑1200余町(約12万㌃)、屋敷の東西12丁、南北4丁で東西に大門があったというので、星田駅周辺から寝屋交差点あたりまで、これから歩く南山根街道全部という気がしないでもない。いずれにせよ想像を絶する!
。家造りの豪勢さは言語に絶していた。この公園の辺りは堀之内という地名が付いています。他に、金門とか車司などという地名も近所に残っています。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanekaido01/index.htm
http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n019.html
■石畳風山根街道
そばにある工場の塀にも「山根街道」のペイントがしてあります。工場の塀はずっと続いて、角を曲った所までありますが、その端っこにも、ちゃんと「山根街道」と書いてある。地域の歴史や伝説をきちんと伝えようとする心意気が伝わります。
ここで街道は左(南)にカクッと曲りますが、正面には西蓮寺、山門を直角に合わせるようにして正法寺。
西蓮寺境内の観音堂には、木造の仏像が安置されています。「鉢かづき姫」の初瀬(はせ)姫やその父母の厚い信仰のあった観音さまと地蔵尊であったと伝えられています。また、道標地蔵といって光背に「右 ねやほしだ道」「左 くらじたき道」と刻字されており、もとは寝屋の集落の西にあったもののようです。(案内碑から)
なかなかおもしろい坂道です。上が40数メートル、下が30メートル切れるくらい。寝屋は台地上の村です。生駒山脈の延長、枚方台地と行ってしまえばそれまですが、台地の北と南の川に侵食され残った部分ですね。台地下の寝屋交差点あたりは標高20mくらい。もっと西の寝屋川市中心部の、高柳とか池田は3mです。
寝屋のすぐ西に、太秦や秦がありますが、そこは20~40mの台地で、太古、太秦や寝屋あたりに人々が住み着きはじめたのでしょう。
坂を登り切ったところで、左(北)の路地に入ってみます。坂道を下りると赤土がむき出しの崖。なかなかいいですね。道はこの城郭の丘をぐるっと一周するようです。
南北の川に挟まれた突端。ここら辺に神社があってもよさそうなのですが、これだけの大村なのに街道周辺には神社がありません。南のタチ川の向うの丘には寝屋神社があったので、そこが氏神か?タチ川向うの台地も、ここの寝屋集落のテリトリなら相当広いです。
昔(第2京阪の工事中)、寝屋神社は行きましたは、大荒れでした。その西の台地は田畑が広がり感じのよい所でしたが、第2京阪の工事に続いて、巨大なショッピングモールができたので、昔の面影はもうありません。
5.星田をブラブラ帰る
星田駅裏の、東高野街道が高田に向かう直線道路に出合うところにあります。
横文字のデザインされた涎掛けを着せてもらってるところが新しい?造花が全部向うむきなんですが、まさか正面が向うというのではなかろうね。
鮨屋の次の路地に入ると、判尺口の大師堂があります。写真は振り返って撮っています。
星田は大師信仰の篤いところです。なにしろ、私市の獅子窟寺で修行しているとき、(弘仁年間 810~824年)のころ、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、八丁三所に星が降ったという伝説のある土地ですから。
最後に、星田神社前を通り、紹介しきれなかった妙見道の道標と向かい側にあるお地蔵さん(石仏?)をのせておきます。
道標の道をまっすぐ行って、小松寺の前を横切って参道に入ってもよいし、左に行って、坂を登って参道に入っても星田妙見宮に行けます。
(終り)
0 件のコメント:
コメントを投稿