2022年9月5日月曜日

京道・田辺街道を歩く


 
 2019年に、高浜街道から分かれる田辺街道を歩き終えたので、ここいらでまとめておきましょう。

 田辺街道は京から旧周山街道ー高浜街道と続いてきて、島で別れて仏主峠ー大栗峠wを越して上林・大町に至るルートと、鶴ケ岡で別れて洞峠を越して、古屋ー大町に至るルートがあり、さらに木住峠(鬼住峠)を越えて田辺(今の西舞鶴)の至る街道です。2022年に高浜街道を歩き終え、京から連続したまとめ記事も完成したので、鶴ケ岡まではその記事(下記url)を参照いただき、ここでは宮脇あるいは鶴ケ岡で別れて移行のルートをまとめてみました。


2022年9月2日金曜日

(一昔前の)かきつばた鎌倉街道


  

  2010年頃のこと、仕事で知立や刈谷方面によくでかけておりました。その前後にブラブラとと付近を散歩していると、看板を見つけました。なに?鎌倉街道!。当時は「東海道」あるきをやっている最中で、ちょうど岡崎に到着したあたりでしたので、矢作川を越えた辺りで鎌倉街道にスイッチ。この地の鎌倉街道を知ったのが八橋だったので、「かきつばた鎌倉街道」のネーミングをしました。

 この文を書いているのは2022年、ちょうど鎌倉殿の13人をやっているところで、それに引っ張られた訳でもありませんが、hp移行で昔の記事を見直していると、当時の鎌倉街道周辺の 情景がありありと浮かんできて、なかなか気に入ったところであったと改めて思い直した次第です。10年一昔前の情景ですが、い今一度歩いてみるのも一興かなと思っているところです。

※タイトルの文字をクリックしてください。オリジナルのブログ(Cocolog)に飛びます。

 1.かきつばた鎌倉街道

八橋・無量寿寺、まだ「鎌倉街道」には出会ってません。
ここはカキツバタで有名、在原業平ゆかりの寺、ということも知りませんでした。また、筒井筒とか高校の古文で出てきた「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」の唄とか発祥の寺とか、この八橋は京都銘菓の「八ツ橋」の語源とかも初めて知りました!ビックリです。

2022年8月31日水曜日

5.傍示越から倉治へ


2009年10月28日

 

 傍示越のすぐ傍のコブにきています。ここから市境はゴルフ場の中に入ってしまうので、迂回ルートを歩きます。交野山-白旗池ー枚方市境の三叉路と歩きますが、半分以上は道草です。


より大きな地図で 市境をあるく(とりあえずのまとめ) を表示

 

(1)傍示越から白旗池へ


 関電鉄塔(12:59)。尾根上には次の鉄塔がありますが、すぐ下に田んぼがあるので、関電道が通っているかどうか?楽なほうとて、田んぼの畦道におります。無理やり市境を行かなくても・・・ 

4.田原尾根~傍示越 をあるく


 

(1)田原への尾根をくだる


2012年4月17日
2008年7月 4日

  

 歩き残していた府民の森・星田園地から飯盛霊園を越す峠から下田原の境界まで尾根上を歩きます。


より大きな地図で 市境をあるく(とりあえずのまとめ) を表示

 

 星田園地から飯盛霊園へ越す峠です。左が飯盛霊園。今日は向うに見える尾根道をたどってきたのでした。ご丁寧にトラロープで仕切りがしてありますが、スズメバチの巣でもあったからか? 


 東の尾根すぐの所に関電の鉄塔がありました。関電の巡回路になっているようで歩きやすい道です。

3.日高山尾根~飯盛小山 をあるく


2009年7月11日
2012年1月18日

    

(1)山道に入り日高山から星田山に向かいます


 

   柵を乗り越えて昔ながらの山道に入ります(13:08)。ミズナラかなにか知らないけど,大木がバンバンあって,なかなかいいじゃないですか。コモンシティはできてから十数年だと思うので,この大木はそれ以前からのものでしょう。手つかずによく  残っていたと思います。団地の範囲外ですからね。団地の中の暑さと比べたら,隔絶された別天地のような気がします。樹々の間を涼風が吹きぬけて行きます。


2.星田北-打上 をあるく


 

2009年7月 8日
2009年7月11日
2010年4月30日

 
 7月8日、今日は暑い日だったので,夕方16時過ぎからの活動です。どっちみち,前回,歩けない所ばかり残ったので「線より点」ということで,市境スポットを見に行くというスタンスです。
 その前に、旧臨港製鉄の西側は、市境が田んぼの中を走っているし、その向こう側は、2009年7月現在、第2京阪の工事中で近寄ることもできません。そこで、第2京阪が完成した後、2010年4月に様子を見に行ったときの写真を上げておきます。 


(1)北星田を出たり入ったり


■第2京阪側道からみる

 前回星田墓地で終わったので、その向こう側からの写真。えんどう豆が植わっている畑と、右側にある草地のラインのあたりが市境か。

2010年4月30日

1.倉治/津田~私部西 をあるく





                             2009年7月6日


 まずは、平地から歩きます。山は秋までお預けです。津田-春日-村野(ここまで枚方地名ばかりですが)-松塚-私部-茄子作(枚方地名)-星田という予定ですが,はたしてうまくいくか?地図を見るかぎり,市境は田んぼの中,工場の真中を通っていますので・・・

(1)春日からのアプローチ

■津田のテンプラ屋さん

 ここは個人的に結構重要な場所になっています。まだ仕事でカケダシの頃,お客様での仕事が終ってこのテンプラ屋さんで昼食になりました。今はこぎれいな店で,割烹などという看板を出していますが,当時は(失礼とは思いますが)いかにも田舎街のほとんど小屋がけの店で,お皿に揚がったテンプラを盛ってあって,「おっちゃん,これとこれとこれ・・・」などと適当に取って食べる,という

2022年8月28日日曜日

天野川散歩


 
天野川を淀川にそそぐ河口から源流までを歩いてみます。
一気には歩けそうにないので、数回に分けて歩いたのを接続しました。

 

※写真をクリックしてください。該当のアルバムに飛びます。

全コマを和歌、俳句で埋めようと思いましたが、そうはとんやが降ろさなかった。




■天野川河口

淀川にそそぐ河口から鵲橋まであるきます。
ここを春に歩いていると 春風や堤長うして家遠し (蕪村) という気分になれます。




2022年8月26日金曜日

陶邑をゆく

 百舌鳥野をあるく(2) 陶邑をゆく

2013年7月2日

 

 

 これから陶器に行こうと思いますが、さすがに百舌鳥野というのが適当なのかどうか?(2)として「陶邑をゆく」にしてみましたが、名前負けしそうなタイトルです。

 1.百舌鳥野とは名ばかり


百舌鳥野をあるく


2013年6月27日

 

 森 浩一さんの「日本の深層文化」という本を読んでいると、田とは異なる豊かさを提供してくれた「野」(や、粟、鹿、鯨など)を捉え直すと、ともすれば稲作文化中心に捉えていた日本の深層文化はあたらしい姿を見せてくれる、とあったので、野の代表例として載っていた、いまはニュータウンになっている泉北丘陵・百舌鳥野を歩いてみたいと思いました。

 

 1.百舌鳥野と石津原

 梅雨の中休みの1日。暑くなりそうで、昨日のほうが歩くにはよかったみたいですが、博物館が休館なので・・・ 例によって寝坊と電車間違いで、JR百舌鳥についたのが12:30を回っていて、半日のウォークになってしまいました。
 百舌鳥といえば本来、大仙陵古墳から見るべきでしょうが、あまりに大きすぎて単なる山にしかみえません。南にある大仙公園から眺めてみようとて、公園へ急ぎます。
レストランも「もず野」

2022年8月25日木曜日

山の根の道をあるく(3) 森-打上


                              2013年9月23日
                        2009年7月11日
                       ほか春夏秋冬

 

 森-私市-星田-打上と歩いて行きます。
 津田からは東に山を見て、北から南に山麓を歩いてきましたが、森を過ぎると山麓の道はだんだん東から西に進むようになり、天野川を渡ると一層顕著になってきます。すなわち山脈は東西に横たわり、水は南から流れてくる。
大雨で水害や山からの土砂災害があったこと、谷からの土砂堆積で水田に適した土地ばかりではなかったことは共通ですね。 

 

森の灯篭の辻

山の根の道をあるく(2) 倉治ー寺


                              2013年9月19日
                        2013年9月29日

  

 今まで、津田は谷筋あり丘越えありでしたが、これから山の根の道はぐっと山際を通ることになります。
今の地名で、東倉治-源氏の滝(道草)-神宮寺-寺 と続きます。

神宮寺の古道

山の根の道をあるく (1)  杉ー津田



                             2013年9月19日                             2013年9月29日

    山根街道はさすがに街道の風情で、大和や高野山、大峰山へ向かうため通しであるく街道の性格を持っていたように思います。
それよりもっと山手に古い道があって、山の根の道とか山根の道とか言われています。この道は山麓にできた村々を縫うようにして走っていますが、通しであるく街道というより、村人の生活の道であったように思われます。「ちょっと用事で○○村へ行ってくるわ」として、村から村へ山麓を伝いながら、途中で立ち話をしたり、ついでの用事をすませたり、あるいは行商のおっちゃんが街道を行くよりも近道として歩いたりするような。そんな道のように思います。
 太古の昔、二上山からサヌカイトを運んだというのはあったにせよ、それはあまりに昔過ぎて、想像しにくい。


2022年8月11日木曜日

私部点描


 

 2016年4月ごろから交野病院に通院していて、運動のため帰りは歩いて帰ることにしています。市の健康診断で引っかかった(というより、2月頃から自分でもどう もオカシカッタ)ので、通院した日は、経過観察として市の健康相談に市役所にも寄っています。その時間調整に私部をブラブラする訳です。
 私部は山根街道歩きで主立ったところは歩きましたが、久しぶりの私部ウォークです。

 

 

山手の散歩道


 

 なぜか気に入っている散歩道。電車でひと駅足らずですが、用事で枚方に出た時など電車を降りて歩きます。なんの変哲もない道ですが・・・バリエーションで少し坂道を登ったり、平地に降りたり気の向くまま歩いています。2008年ころから撮りためた写真をざっと眺めてみると、定点観測みたいになっている場所もある。

  タイトルをクリックすれば、該当アルバムが開きます。

 



1.無垢根村・河内森

だいたいは河内磐船または河内森から山手の道を通って私市に帰ります。しかし、気分が乗るとわざわざ遠回りして、森の大門酒造のあたりから、山手の道に入ります。






2.天田宮

くろんど園地から西北に谷が落ちていきます。傍示への山根の道と獅子窟寺の尾根に挟まれた谷です。この谷が平地に降りていった先は扇状地になっていて、その首に天田神社が位置しています。天の川沿岸の条里制の一条を潤す谷水を司る神社が元々の成り立ちではないかと思っています。この前を山の根の道が続いています。


 
  3.山手の散歩道・山の根の道

天田宮の前から山手の道が続いています。山の根の道と言われていますが、この道が好きでことあるごとに歩いています。

 
  4.天田一条定点観測

天田の宮の下に広がる棚田を見ながら散歩、花見。古代条里制の一条に接する棚田です。ここは定点観測地になっています。定点観測だから同じ場所です。同じ景色かというと全然違う。四季折々、年によっても違います。これが定点観測の醍醐味。




百重ヶ原橋を南に渡った所。この棚田がいつまでもつのか?周囲には住宅が迫ってきています。田んぼ1枚、放棄地となれば雪崩を打って住宅地になりそうで・・・・
 
 
 
 




6.私市・若宮神社

古くからある天田の宮に対しての若宮神社なのですが、その昔磐船神社から別れて神様を移してきたという訳です。住吉四神が祭神ですが、「それはまちがいで、本来はニギハヤヒが祭神である」と現祭神を否定しているところが面白いのです!





7.天野川・水辺プラザ

きさいち植物園の前、天野川に尺治川が合流する場所です。公園のように整備されていますが、昔の治水遺構・尺治川砂防堰堤や天野川砂防堰堤などの歴史遺産も残されています。春、夏には子どもたちが川に入って遊ぶ姿も見られます。







8.磐船街道

山手の散歩道から私市の村中を回って磐船街道に降りてきます。ちょっと南へ足を延ばすこともあります。おいおい補充しましょう。

 







9.尺治の道

私市・山手の散歩道に尺治の道を追加しました。私市で磐船街道と分かれて、くろんど園地・くろんど池に抜ける道です。古くは石神の道であり、大和へ抜ける間道でもあったのでしょう。 

 





2022年8月5日金曜日

山根街道をあるく3 長尾~八幡


   これから長尾を歩きます。長尾峠を越えると八幡で、まもなく山根街道は東高野街道に接続します。長尾は広いですが、いたるところに菅原という名前が出てきます、なぜか。

 昔は、交野から長尾にかけた一帯を、交野ヶ原と呼んでいました。ハギやススキが咲き乱れ、散在する池にはカモなどの水鳥が羽を休める静かな地であったと伝えられています・・・と書くといかにも風流ですが、要は丘陵地は荒野で水田もできにくい原だった。
 この地を長尾と命名したのは、江戸時代の領主久貝氏だと伝えられています。理由は、河内の北の果ての尾のようなところだからとか。元和元年(1615)大坂落城の後、旗本の久貝因幡守正俊(くがいいなばのかみまさとし)が河州交野郡を拝領し、荒地ではあるが山城との国境で、交通の要所、戦略上の要地であったため、ここに陣屋を営みました。
 久貝氏の家来、細谷善兵衛は、当時 13戸の村民や近隣村民を集め、長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造りました。その後、慶安三年(1650年)には 33戸にまで増加し、そこで、長岡天神の分霊を受けて「菅原天神」の建立しました。これが長尾の菅原神社です。

http://www.shoai.ne.jp/hirakata/jinjya/f130116/f130116.html

  明治22年(1889)の町村制施行で長尾村と藤阪村が合併して、両村とも鎮守社がそれぞれ菅原神社だったことから、菅原村が誕生しました。昭和15年(1940)には、津田・菅原・氷室の3村が合併して津田町となり、菅原村はなくなりました。さらに昭和30年に津田町が枚方市に合併されたため、長尾○○町名が復活したという訳です。菅原という名は学校や地域の施設などの名前として残されています。
 茫漠たる野に花が咲き、水鳥が立ち寄る風流な土地だったのだ。 

 

 

山根街道をあるく2 津田~菅原


  

 近くにいながら津田は良く知りません。国見山から降りてきて津田駅に向かうとか、その逆で山登りの途中で通過する。あるいは駅前の狭い道を通り過ぎる。なんともごちゃごちゃの新旧住宅のある場所というのが印象です。春日の元環濠集落は歩いたことがありますが、大きな旧家があるかと思えば小さな住宅が混在したところでした。最近は津田サイエンスパークや山手の住宅開発でさらにごちゃごちゃが進んでいて、急に都市化したような感があります。

 しかし、つぶさに見て行くとなかなかレガシィなものがあります。

 

山根街道をあるく1 私部~倉治


 2013年9月17日
2013年9月23日

 かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道は東高野街道が有名ですが、高野山や大峰山へ行くには少し東の山側にある山根街道も同じように使われたと思います。したがって「高野みち」のサブカテゴリに入れました。
 地図を見る限り東高野街道のほうがまっすぐで近いかもしれません。どういう風に使い分けたのかが興味あるところですが、「ちょっとぐらい遠てもええやん、古い村々があるっちゅうし、なんぞうまいもんでもあらへんかな、おもろいやん」という輩が通ったのか?

 今まで細切れには歩いていましたが、この際、私部から八幡まで通しで歩いてみようと思いました。 

 

2022年8月3日水曜日

町石道をあるく3(矢立60町石~壇上伽藍)


 町石道は2回と1/3を歩いた。中途半端な1/3とは2010年11月22日、朝から大雨で慈尊院で雨宿りをしたあげく気分が乗らないまま決行し、二ッ鳥居で意気消沈して、古峠からエスケープしたものである。あとは、登りと下り1回づつ。ただし下りは秋のつるべ落としの時間切れで、百町石より下 は飛ばしに飛ばしたのと、樹林帯のなかは真っ暗でほとんど写真にならず。
 町石道第3クールは、矢立60町石〜高野山壇上伽藍だ。2回目のデータと3回め下りのデータで構成する。 

参考記録

1回目:2010年11月22日
    慈尊院(8:30)-144町一里石(10:38)−古峠(11:41)-二ッ鳥居(11:53)
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-205.html
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-206.html
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-207.html

2回目:2011年5月4日
     慈尊院(7:32)-一里石(8:52)−古峠(9:37)−二ッ鳥居(9:43)-神田・二里石(10:08)−笠木峠(10:40)-三里石(11:11)−矢立(11:34)-四里石(12:58)−大門(14:00)−壇上伽藍(14:20)


3回目:2014年11月21日
    壇上伽藍(10:34)-大門(10:46)−矢立(13:41)-笠木峠(14:54)-神田(15:48)−二ッ鳥居(16:03)−一里石(16:34)-慈尊院(17:32)

4回目:2016年7月22日
    9:40 金剛峯寺-9:51壇上伽藍-10:14大門-12:38矢立-13:35笠木峠-
14:17神田-14:39二ッ鳥居14:58-15:42一里石-17:13慈尊院-17:55九度山
    https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-310.html

  ■町石が町石道の左右どちらにあるのかを写真の下に記入した。振り返り写真も多数あるので、大門の方向を基準に右左を示している。


■矢立でもうちょっとゆっくり 60〜59町石

 2回目、2011/5/4は、矢立でちょうど11:30だったので昼飯としました。九度山を朝に発って、ここでちょうどお昼になるので絶好の休み場です。
 矢立とは?武士の弓矢を入れるカゴとか、今風にいうなら筆ペンのように、筆と墨壺のセットというのが本来の意味だそうですが、ここの矢立はどちらから?ちょっと調べてみはしましたが、どうも矢立茶屋の餅と矢立砂捏地蔵くらいしか情報がありませんでした。

 高野道以外に、九度山−細川からこの峠を越えて、花坂を経て、海南や湯浅に出て行く街道があったのだろうか?そのあたりを調べてみたいとは思う。しかし、その道はクルマがビュンビュン走っているので歩くのはどうかと思うが・・・  60町石は道路脇 

町石道をあるく2 (古峠123町石-矢立60町石)


 町石道は2回と1/3を歩いた。中途半端な1/3とは2010年11月22日、朝から大雨で慈尊院で雨宿りをしたあげく気分が乗らないまま決行 し、二ッ鳥居で意気消沈して、古峠からエスケープしたものである。あとは、登りと下り1回づつ。ただし下りは秋のつるべ落としの時間切れで、百町石より下 は飛ばしに飛ばしたのと、樹林帯のなかは真っ暗でほとんど写真にならず。 

   町石道第2クールは、古峠123町石〜矢立60町石だ。2回目のデータを中心に、3回め下りのデータで補充していく。

■参考記録

1回目:2010年11月22日
    慈尊院(8:30)-144町一里石(10:38)−古峠(11:41)-二ッ鳥居(11:53)
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-205.html
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-206.html
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-207.html

2回目:2011年5月4日
     慈尊院(7:32)-一里石(8:52)−古峠(9:37)−二ッ鳥居(9:43)-神田・二里石(10:08)−笠木峠(10:40)-三里石(11:11)−矢立(11:34)-四里石(12:58)−大門(14:00)−壇上伽藍(14:20)

3回目:2014年11月21日
    壇上伽藍(10:34)-大門(10:46)−矢立(13:41)-笠木峠(14:54)-神田(15:48)−二ッ鳥居(16:03)−一里石(16:34)-慈尊院(17:32)

4回目:2016年7月22日
    9:40 金剛峯寺-9:51壇上伽藍-10:14大門-12:38矢立-13:35笠木峠-14:17 神田-14:39二ッ鳥居14:58-15:42一里石-17:13慈尊院-17:55九度山
    https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-310.html

■町石が町石道の左右どちらにあるのかを写真の下に記入した。振り返り写真も多数あるので、大門の方向を基準に右左を示している。

 
二ッ鳥居への道 123~120町石

 古峠あたりは相当暗かったですが、やや明るさを増してきました。二ッ鳥居では一気に展望が開けます。そのコントラストが鮮やかでまた楽しい。 

123町石   左

町石道をあるく1(慈尊院~古峠124町石)


 

    街道ウォーカーとしては、町石道は歩いておかねば、とて歩き始めた。せっかくの町石道なので、どうせなら町石を全部撮ってやろうと、撮り始めたものの・・・・・それが難儀の始まりで1回では終わらない。他人には意味がない話だが、まあ、修行と考えてとことんやってみようと、今も続いている。

 町石道は2回と1/3を歩いた。中途半端な1/3とは2010年11月22日、朝から大雨で慈尊院で雨宿りをしたあげく気分が乗らないまま決行し、二ッ鳥居で意気消沈して、古峠からエスケープしたものである。あとは、登りと下り1回づつ。ただし下りは秋のつるべ落としの時間切れで、百町石より下は飛ばしに飛ばしたのと、樹林帯のなかは真っ暗でほとんど写真にならず。 従って、第1回は、登りの1.5回のデータを中心にまとめた。

参考記録
1回目:2010年11月22日
    慈尊院(8:30)-144町一里石(10:38)−古峠(11:41)-二ッ鳥居(11:53)
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-205.html
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-206.html
     http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-207.htm

2回目:2011年5月4日
     慈尊院(7:32)-一里石(8:52)−古峠(9:37)−二ッ鳥居(9:43)-百町石(10:19)- 矢立(11:34)-壇上伽藍(14:20)

3回目:2014年11月21日
     壇上伽藍(10:34)-矢立(13:41)-百町石(15:30)-二ッ鳥居(16:03)- 慈尊院(17:32)

4回目:2016年7月22日
    9:40 金剛峯寺-9:51壇上伽藍-10:14大門-12:38矢立-13:35笠木峠-14:17神田-14:39二ッ鳥居14:58-15:42一里石-17:13慈尊院-17:55九度山
                 https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-310.html


 ※町石が町石道の左右どちらにあるのかを写真の下に記入した。振り返り写真も多数あるので、大門の方向を基準に右左を示している。


■慈尊院から一町目  180町石
 町石道の起点は慈尊院だ。そこから1町、約109mの百八十町石は丹生管省符神社へのぼる石段の途中にあった。


2011/5/4

高野山町石道をあるく

 72町石付近をあるく(2011/5/4)
72町石付近をあるく(2011/5/4)

 

2022年7月28日木曜日

細切れ道草・東高野街道

   東高野街道が気になっています。
 2005年に竹内街道ウォークで古市に行ったとき、竹内街道が東高野街道とクロスしていて、少し東高野街道を歩きました。なかなか気持ちのよい道だったので、一度通しで歩いてみたいと思っていました。調べてみると家の近くを通っているという!

2022年6月28日火曜日

雨男,九州をゆく II 杵築、豊後高田散歩


  

 5月(2011年5月)に大学時代のサークル同期の幹事で、九州は湯布院で同期会を開催ということになり下見に行きました。2日いましたが、集中豪雨と台風接近でした。雨にふられて退散。
 半年後の本番ですが、幹事のお役目から、さすがにやばいと思って、前日に九州入りして、1日をプライベートな観光にあてました。2011年10月14日、予想通り雨というか、豪雨。今回も「さんふらわあ」できましたが、大分駅前のドトールでさすがに考えました。この雨で観光か?
 とにかく時間をつぶさないといけないので、とりあえずどこか行ってみることに。宇佐神宮とか昭和レトロの豊後高田あたりを考えていましたので、とりあえず電車にのります。

 宇佐まで行かずに途中の杵築でおりました。理由はあまりありません。杵築についてはまったく予備知識がありません。辛うじて、杵築という名前は知っていたが、それも出雲大社の杵築です。また、以前読んだ「八幡神と神仏習合」逵 日出典著、講談社現代新書に杵築というのが出ていたような気がするので、なにかあるだろうと。雨は続いています。

きつき城下町資料館の御所車

雨男、九州をゆく 湯布院、竹田、日田


 

 

  行くたびに雨が降って、雨降りの九州街ブラなどおもしろくもないと思いますが、気になってしかたがないので、まとめておきます。
 大学時代のサークル同期の幹事で、九州は湯布院で同期会を開催ということになり下見に行きました。


2011年5月28日:豪雨。湯布院-長者原-竹田
2011年5月29日:雨のち曇。日田。台風に追われるようにして退散

長篠・設楽原古戦場


                                     2001年9月22日(金)


  2000年に仕事を変わり、2001年は母親の葬儀と、アウトドアどころではない日々が続いておりましたが、初盆を終え、やっと普通の生活に戻りました。
  ここで半ば唐突に長篠です。戦記物のファンでもないし、信長ファンでもないのですが、当時、桶狭間の戦いの延長で長篠の戦いを調べていたと思います。9月21日東京で仕事、23日高浜で仕事で22日がぽっかりあいてしまいました。これ幸いと豊橋で前泊し、行ってみることにしました。長篠城から決戦のあった設楽原あたりを歩きます。

  長篠・設楽原の戦いの詳細はいろんなサイトに詳しく載っていますのでそちらを参照ください。特に、この戦いで信長が採った3000人の鉄砲隊を3組に分け順繰りに発砲する「鉄砲の三段撃ち戦法」が斬新だったがゆえに武田勝頼の「騎馬軍団」を破り、これが「大量の鉄砲を集中使用する日本軍事史上に残る画期的な戦法=戦術革命をおこした」というのが定説になっていましたが、これは疑わしいというのが主流になっています。専門サイトをいろいろ読みましたが、下記が詳しい。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-01.htm
http://eikorekken.client.jp/collaborate/nagashino/content.htm
オリジナルは下記書物のようです。ボクは読んでませんが…
鈴木眞哉著『鉄砲と日本人-「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)
名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)
藤本正行著『信長の戦争「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年) 

 
【長篠城攻城戦】


■飯田線長篠城駅
 ここで降ります。まずはマップ。この付近の決戦場はかなり広範なので長篠城址、それから電車で三河東郷まで行って設楽原決戦場に行くこととします。
天正3年(1575年)7月9日(グレゴリオ暦)、武田軍は長篠城北方の医王寺に本陣を置き、南東側の鳶ヶ巣山砦他4つの支砦を置いて、徳川方の長篠城を包囲していました。医王寺はちと遠いね。
http://maechan.net/kanreki/ (和暦西暦変換tool)←これは便利


松本ウォーク

                2005年5月21日

松本ウォーク回想編


【プロローグ】

 松本は,昔2回ほどきたことがあるが,下車せず通りすぎただけだった。1回目は覚えている。夏休みの始まりに,研究室のS先輩と越後(会津か?)の荒沢岳経由で越後三山に行こうとして,梅雨末期の集中豪雨にあい,雨をついて途中までは登ったものの,鎖場にであっ
た。 「この豪雨の中,こんなとこを登るんかい!」と意気消沈してしまい,そのまま下山。宿でぼぉーっと一泊した後,時間をもてあまし,「せっかくやから善光寺 まいりをして,帰り道,御岳さんでも行こ」と,小出,飯山,長野とめぐってきた記憶がある。あと1回はどこへいったのか?部の活動のあとで,大糸線で糸魚 川にでた記憶だけはある。
 S先生(S先輩とは違う人)は長野県のご出身で,「松本はおしゃれな洗練された街で,おすすめ」という言葉をいただいていたので,いつか は街をじっくり見てみたい思っていた。今まで,松本は登山基地というイメージしかなく,あの山の中(失礼!)のそれも城下町で,「洗練された」とはどうい くことか?とぼしい経験から,仙台のような街なのか,それとも金沢のようなところか?色々思い巡らせていて,東京出張の帰りに行ってみることにした。

【エントランス】
 昔の記憶では,鈍行に揺られながら入った。山の中から峠のようなところを越えて,視界がパッと開けて,木々の間から街がみえて,「ああ,あれが松本か!」(実際は穂高の辺り)と,長い旅をしてきてやっと到着したという感じで,一種の感動を覚えた記憶がある。
 今回は中央東線の特急あずさ9号で行った。松本へのエントランスの峠越えを期待していたのだが,諏訪,岡谷,塩尻と淡々と通り越して入ったようで,「ああ,やっときた」という感動はあまりなかった。

 そうか,あれは長野からの篠ノ井線だったのか。となると,あの感動は善光寺まいりのあとか?しかし,部の先輩から,「山の中から,ぱっと視界が開けて,うんぬん」ということを聞いていたので,部活の後だったと思うが・・・・?となると,部活の後も,やっぱり篠ノ井線で長野からきたのか?
 地図を引っ張り出して色々眺めていると,思い出した。そういえば,戸隠に行ったことがある。その帰りに篠ノ井線経由で松本にきたのだった。ならば,あと1回 松本を通っているはずだが・・・(茅野で降りて蓼科へいった記憶があるので)などなど,いろいろ昔の記憶を思い起こさせてくれたり,また新たな疑問がでて きたりで,これはこれで楽しいエントランスだった。

 結論は,やはり松本へ入るのは長野から篠ノ井線がよい,ということになりそうである。